「あれほどかわいがって育てたのに私を捨てて行った」と死ぬまでこの言葉をくりかえし、私のしたことを許そうとはしなかった。
父が亡くなってからやっと自分の来し方を反省し、母への悔恨の気持ち、それから長女の責任も感じて毎年母を訪ねた。
手を変え品を変え母の心の慰めになるように努力してきたが、必ずいやみを言われ、時には意味も分からず追い返されたこともあった。かわいさ余って憎さ百倍だったようだ。
「どうせ私が死んでも貴女は遠い所にいるんだから間に合いませんよね」と皮肉とも、嫌味とも、あきらめともつかず、顔をあわす度に同じ言葉を繰り返していた。
しかしよほど因縁が深かったのだろうか、母九〇歳の誕生祝いに広島に行って二ヵ月後、私がブラジルに向けて出発するその日に亡くなった。
飛行場から後戻りをした私は、そのまま母の亡骸に向かい、喪主を務めて母の望んだような政(まつりごと)を執り行い、長女の責任を果たした。
移住して四六年目だった。
※政(まつりごと)=祭事、祭祀、神道による先祖をまつる儀式
(二〇一四年)
白い霧の夜
夫が他界して二度目の冬が来た。淋しさはどうしようもなかった。
相変わらず一人で骨董店を続けていた。一階は店、二階が住居。出入り口の戸をあけると幅の広い軒があって、その向こうは道路に面して車が二台入れるほどのスペースがある。
もう大分前から朝、店の戸を開けると時折プーンと匂ってくるものがある。この頃はそれが頻繁になってきた。この不愉快な臭いは犬だとばかり思っていたが、どうやら人間の尿のにおいだという事にきづいた。きっと浮浪者か乞食が隅にある小さな花壇をトイレ代わりに使っているにちがいない。
おまけについ三日前、大便を茂みの中にみつけたのだ。
これには「怒髪冠を衝く」の言葉通り髪の毛が逆立ち、全身から湯気が出そうなくらい腹をたて、興奮のあまり誰かれなくこの大ニュースをしゃべり散らした。
その中で、古き友人が「そんなに嫌うことも怖がることもないよ。乞食ってのは強盗に早変わりする事はない。彼らが君の家の前に寝ていたら、強盗が彼らをまたいで家の中に入ることはないから門番だと思えばいいさ、心配ないよ」と呑気そうに言った。いくらそういわれても、毎回トイレ掃除をさせられるのは腹の虫がおさまらない。
「絶対捕まえて警察に突き出してやる。主人がいないと思ってバカにしているわ」私は一人憤慨して毎晩彼らの足音に耳をそばたてたが、そんな日に限って何一つ物音はしなかった。
丁度十日後、日本にゆく友人を飛行場に見送りに行って、家に帰ってきたのが夜中の一二時近くになっていた。冷たく白い霧が立ち込めて、通る車も人影もなく、街灯がぼんやりと光っている。
我が家の前庭に車を入れようとしたとき、軒の下に人が五?六人たむろしているのを見た。
…乞食…とっさに急ブレーキを踏んだ。突然つよいライトを浴びて全員キョトンとしてこちらを見ている顔、顔、顔。