「本当は戦争のことも、土地闘争のことも話したくありません」。そう切り出したのは伊佐浜移民のひとり澤岻安信(たくし・あんしん)さん(85)だ。昨年末、澤岻さんの知人宅で取材した際、同席した同県人にウチナーグチ(沖縄の方言)で促されるなか、戦中の体験から少しずつ語り始めた。
激烈な沖縄戦の最中の1945年4月、澤岻さんは13歳だった。母、弟、妹と普天間神宮近くの自然壕に身を隠していたところ、日本兵から米軍が来るから別の場所へ避難するよう指示を受け、暗い夜道を歩いていたという。
すると突然、照明弾が上がり辺りは昼間のように明るくなった。同時に「バリバリバリ」という機関銃の音がして、一緒に避難していた人たちが撃たれて次々に倒れた。
このとき母、弟、妹を亡くした。澤岻さんは自然壕に戻ったが、翌朝米軍に見つかって捕虜になった。収容所で祖父と再会し、そのまま終戦を迎えた。
終戦から2年が経ったころ伊佐浜の自宅に戻ることが許された。田畑には背の高さほどまで草が生い茂っていたので切り開いた。その頃、フィリピンに出稼ぎに行っていた父親が戻ってきたので、祖父と父と3人で暮らし始めた。タクシー運転手の仕事で生活にやっと安定の兆しが見え、54年に結婚した。
その年の4月、米軍は「土地収用令」を交付し、伊佐浜一帯の水田への水稲の植え付けを禁止すると言い渡した。「流行性脳膜炎を媒介する蚊が発生するのを防止する」というのが表向きの理由だった。
住民らは琉球政府を通して、水稲植付禁止指令の解禁を陳情したが、9月にブルドーザーがやってきて、いきなり耕地の地ならしを始めた。住民約200人が駆け付け中止させたが、区長は基地に連行され、取り調べを受けた。
その後、米軍が提示したけた外れに低い賃借料で交渉が成立に傾きかけた。しかし「男たちの妥協」としてナエさんを中心に女性が立ち上がったことで、村全体で土地接収に反対する機運が高まり土地闘争は本格化する。
それに対し、米軍は実力行使に打って出た。1955年3月、基地の建設工事を強行。止めようと集まった住民に対して、引き金に指をかけて銃剣を向け、銃尾で老人、女性みさかいなく殴りつけた。
住民と米軍の間の緊張が高まる中、7月11日、米軍は土地接収の期限を同月18日に決め、その日までに立退くよう伝達した。住民らは琉球政府を通じて、度重なる陳情を続けていたが無視された。
55年7月18日、住民たちは自分たちの土地に座り込み、何としても米軍を食い止めるつもりでいた。土地接収は沖縄中の関心を集めていて、他の地域から駆け付けた支援者や新聞記者などが集まっていた。当時琉球大学の学生でその場に居合わせた作家の川満信一(かわみつ・しんいち)氏は著書の中で「五、六千人の支援団体がつめかけた」(『沖縄・自立と共生の思想「未来の縄文」へ架ける橋』、海風社、1987年)と記している。
澤岻さんの一家も座り込んだ。「いくらアメリカといえども民間人を殺すことはない。絶対にどくものか」と澤岻さんは考えていた。
終戦から10年。安定へと向かっていたはずの戦後の人生設計が、大きく崩れようとしていた。(つづく、山縣陸人記者)