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サントス強制立退=銃剣武装の警官に引き立てられ=「何が何だか分からなかった」=いま語る75年前の暗い記憶

当時の記憶を鮮明に語った当山さん

当時の記憶を鮮明に語った当山さん

 サントス沖での独潜水艦による米商船2隻と伯貨物船3隻の魚雷撃沈事件を受けて、1943年7月7日、社会政治警察(DOPS)はサントス沿岸一帯の枢軸国民に24時間以内の強制立退を命じ、日本移民の家族およそ6500人らは突如として生活の全てを奪われた。16年8月にドキュメンタリー映画監督・松林要樹氏が強制立退時の在住日本人名簿を発見したことをきっかけに、当時の証言が徐々に明かされるなか、そのうちの一人であった当山正雄さん(96、沖縄県)が重い口を開き、75年前の暗い記憶を辿った。

□1932年、当時10歳の頃、叔父とともに渡伯した当山さん。父親は一足先に渡伯してサントス港の埠頭で沖仲仕(おきなかし、港湾荷役労働者)として働き、それから2年後に母親も渡伯した。ところが母親は38年に病死。当山少年は家計を助けるため、学校に通えず働くことを余儀なくされた。
□1937年にジェトゥリオ・バルガスによる独裁政権が樹立。新国家体制のもとで日本移民に対する厳しい弾圧が始まり、41年の太平洋戦争開戦により、ますます色濃くなっていった。
□当時、バス修理会社で働いていた当山さんは「道を歩けば、『ジャポン、ジャポン』と指さされて罵られた」といい、「ともかく家と職場を往復するだけの生活。用なしでは、不安で家から外には出られなかった」と当時の心境を語る。当山さんによれば、路上にいただけで拘留された日本人が大勢いたという。
□家にラジオはなく戦況も分からない。42年1月から公の場での日本語使用も禁止され、同じ職場の日本人とすら話せなかった。弾圧のなかで日本語情報もなく、心理的にも隔離された状況だった。「ポ語も分からなければブラジル人とも喋らない。何が起きているのか周りの状況がさっぱり解らなかった」と振り返る。
□そんななか強制立退命令が突如降りかかった。「トランクを持つことも許されず、着の身着のままともかく命令で連れて行かれた。何が何だか分からなかった」と混乱した様子を語る。当時22歳だった。
□短剣や銃剣で武装した警官に命令され、恐怖に怯えた移民家族は駅へと向かい、サントス・ジュンジアイ線でサンパウロ市の移民収容所へと移送された。「車内では皆が口を噤んでいた。収容所では床に転がって寝た。独人、伊人、女も子供も関係なく一緒くたになっていた」という。
□一週間後、収容所を出た当山さんはサンパウロ市にある同修理会社の工場で働いた。「戦後、47年にサントスに戻ったとき、ボクの家にはブラジル人が住み着いており、飼育していた豚も残っていなかった。夜空の月を眺めては悔し泪を流した」という。
□「これまで話をすることができなかった」。最後にそう静かに語った当山さん。強制立退で財産の全てを失い、ゼロからの再出発。苦難に翻弄されながらも奔走し、自分で修理工場を立上げた。繰返し「とにかく家から外には出られなかった」と語るその言葉に、拭い去ることのできない当時の悲しい記憶が刻まれているようだった。