ブラジル日本交流協会(神戸保会長)は、日本の青少年をブラジルの企業や団体に派遣し、1年間の研修プログラムを通じてブラジルの文化、風習を体験させ、両国の架け橋となる人材を育てている。前身の旧社団法人日本ブラジル交流協会時代から数えれば、今までに750人以上の若者が同制度で研修を行った。2017年も5人の日本の若者が当地で研修を行い、様々なものを得て研修を終えたという。今連載では研修生寄稿の体験談から、今の日本の若者がブラジルに何を求め、交わることで何を得たのかを確かめていきたい。 (編集部)
山縣陸人さん(埼玉、26)。2016年に損害保険会社を辞職し、研修制度に参加。研修先はニッケイ新聞。趣味はカポエイラ。
「とにかくブラジルで働きたい」。そう考え始めたのは、社会人2年目、損害保険会社で営業として勤めていたころのことです。
そもそもその会社に入社したきっかけは、大学3年のときにブラジルを訪れた際、サンパウロに駐在する同社の社員から現地の業務や生活について話を聞き、ブラジルで働くことに強い憧れを抱いたからでした。
しかし、入社2年目に配属された支社には異動を待つ先輩が多くいて、私が異動のローテーションに組み込まれるのは何年も先のことでした。そこで2016年3月に意を決して退職。語学学習以上に、実務に関ることを望んでいたので、ブラジル日本交流協会の研修制度がその希望に適っていると思い応募しました。
2016年の夏に研修参加が決まり、その冬には研修先がニッケイ新聞と知らされました。翌年4月から記者としての研修が始まりました。
日系社会についての知識は、日本人移民を題材にした北杜夫の小説『輝ける碧き空の下で』で得た程度だったので、ブラジルに着いた当初は驚かされることばかりでした。
民謡、舞踊、和太鼓などの団体が活発に活動していること、カラオケが人気でカラオケの先生が歌唱レッスンの教室を開催していること、YAKISOBAやSHIMEJI、KAKI(柿)などが日本名のまま知られていることなど、地球の反対側で日本の文化が大切にされていることを初めて知ったのです。
また、日系社会が多くの課題を抱えていることも知りました。若い世代の混血・現地化が進み、高齢者らは伝統芸能の継承に苦心しています。また、戦時中から日本人移民を救済し続けてきた医療・介護機関は寄付が集まらず赤字続きです。日本語を読む人が少なくなり、ニッケイ新聞の存続を危ぶむ声もありました。これには日系社会の衰退を実感せざるを得ませんでした。
1年間の研修の締めくくりとなったのが、1957年に沖縄の伊佐浜という地域からブラジルに移住した人々を取材した連載記事の執筆です。
55年、米軍が軍用地として利用するために伊佐浜住民の土地を強制的に接収し、土地を奪われた32家族の内10家族が故郷を離れて縁故のないブラジルに行くことを決めました。戦争に敗れて10年。戦場になった沖縄が焼け野原から復興しやっと生活が安定してきたころ、人生の大きな転換を余儀なくされたのでした。
当時、このことは沖縄の地方紙で盛んに報じられましたが、ブラジルに渡った人たちがその後どのように過ごしたかはあまり知られていないそうです。編集長は「当事者は辛い過去を自ら語ろうとしない。それを聞き出して文章にすることで光を当てるのがメディアの役割のひとつだ」と言っていました。
では光を当てることにどんな意味があるのかでしょうか。これについては連載の最終回(第5回)で取材を受けてくれた伊佐浜移民の方と、歴史を明文化し後世に語り継ぐ意義についてやり取りをしています。ここでは視点を変えて個人として感じたことを述べたいと思います。
伊佐浜移民3組のうち2組は電話で取材依頼したとき、「もう昔のことだから話すことはない」「辛いことを思い出したくない」と取材に後ろ向きでした。それでも会いに行くと温かく迎い入れてくれ、3時間にも及ぶ取材にも関わらずひとつひとつの質問に丁寧に答えてくれました。
過去を思い出すことが辛いのは変わりなく、ときには泣きそうになりながら話してくれました。私は彼らが初対面の記者に心情を明かしてくれたことに対して、文章を書くことで応えたいと思いました。歴史を残す意義とは別に個人として、取材を受けてくれて人たちにとって自身の歴史を振り返ったり、家族に知ってもらったりするのに役立ってほしいと思います。
この1年の研修は人生の中で最も、社会に関心を持ち、文化を学び、人の歴史や心情に触れる機会になりました。振り返ってみて、とても貴重な経験だったと強く思います。私は3月に一度帰国しましたが、4月から半年間ニッケイ新聞で記者を続けます。この経験が次の半年に生かされることを願いつつ、今年が移民110周年の節目であることや、次なる連載の構想に胸を高鳴らせています。