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明治のどの部分からブラジル移住は始まったか

日ポ両語『日本文化』第7巻

日ポ両語『日本文化』第7巻

 「明治維新150周年」が日本で盛大に祝われようとしている。明治のどんな部分からブラジル移民が始まったのかを解き明かしたいコラム子にとっては、少々関心がある行事だ。
 というのも「なぜ日本で殖民事業を開始した榎本武揚や“ブラジルの吉田松陰”大武和三郎は旧幕臣で、水野龍(りょう)は土佐藩士(高知県)で、その女房役たる上塚周平は肥後藩(熊本県)だったのか」という問いが頭から離れないからだ。
 つまり、明治政府を主導した薩長の人材ではない―という点だ。
 1885年に伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したとき、榎本は旧幕臣から唯一大臣に選ばれたが、閣僚構成は薩摩4、長州4、土佐1、旧幕臣1だった。
 つまり明治維新の中心になったのは薩長土肥だが、政府を主導したのは薩長のみ。新政府側だが劣勢の者たち(土肥)、権力者から虐げられた側(旧幕臣)から「殖民事業」は発生している感じがする。
 ちなみに薩長土肥の「肥」は肥前藩(長崎県、佐賀県)であり、上塚の肥後藩は入っていない。だが新政府側に立って戦ったのに中枢に入れなかったという意味では劣勢の側だ。
 榎本は1897年、公式植民団としては日本初の榎本殖民団40人弱をメキシコに送り込んだ。その時、徳川家康を支えた三河武士の根城である愛知県でまっさきに募集をかけた。不遇に扱われていた旧幕臣を送り出すためだ。
 だが非公式には、明治元年1868年に、会津若松藩地区からの移民団がカリフォルニア州ゴールドヒルに渡った。すぐに四散してしまったが、アメリカ大陸初の日本人植民地「若松コロニー」建設を目指していた。
 これはやはり、薩長に最後まで抵抗した「奥羽越列藩同盟」の会津藩士が我先にと米国に安住の地を求めた動きだ。
 ブラジル関係者の高知県出身者の先駆け水野龍が8歳の時、坂本龍馬が31歳で暗殺された。幕末の土佐藩の同じ時代の空気を吸っていたといってよい。
 坂本龍馬は北海道移住を夢見ていた。甥・直寛は坂本家5代目当主として、龍馬の遺志を継いで移民団「北光社(ほっこうしゃ)」を設立し、1897年に家族など約100戸を連れて北海道北見の原野へ開拓に入った。
 もし龍馬が生きていれば、水野龍の海外雄飛の想いと共鳴しあい、坂本家のメンバーが第1回移民船・笠戸丸に乗っていたかもしれない。
 高知県人には、戦前の3大邦字紙の一つ『日伯新聞』の創立者・三浦鑿(さく)もいる。コチア産組創立者の下元健吉本人に加え、あとを継いだ井上ゼルバジオ忠志(ただし、二世)も両親がそうだ。海外殖民学校を創立してアマゾナス州マウエスに卒業生を送り出した崎山比佐衛もしかり。
 衆院議員までやってから米国を経てブラジル移住した西原清東、パラナ州の日本人移住の大功労者の氏原彦馬、日系初の連邦下院議員・田村幸重の父・義則も高知県宇佐町出身だった。同県出身の著名な初期移民は実に多い。
 ブラジル初の邦字紙・週刊『南米』を創刊した星名謙一郎は宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)出身だ。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使をしたあと一移民としてブラジル移住した古谷重綱も。
 宇和島藩祖は伊達政宗の長男伊達秀宗であり、幕末においては仙台本家(伊達家)が奥羽越列藩同盟に連座しこともあって、基本的に中立を保ち、新政府に強い藩閥を持てなかったところだ。
 この奥羽越列藩同盟とは、東北地方と新潟県の諸藩が『東日本』として独立することを目的に作った同盟であり、現在でも薩長史観の観方をする本には「賊軍」などと表現されて地域だ。
 そんな新潟県で1870年に生まれたのが、戦前の3大邦字紙の一つ「ブラジル時報」を創立した黒石清作だ。高浜虚子が渡伯に際して《畑打って俳諧国を拓くべし》の餞別句を贈った佐藤念腹、戦中の日本人差別被害を訴えた本を出して日本人で唯一DOPS(社会政治警察)から発禁処分を受けた気骨あるジャーナリスト岸本昂一も新潟県人だ。
 こうやって並べてみると「賊軍」と「新政府の劣勢者」が中心になって始めたのが、ブラジル移住といえなくもない。
 先週発売されたばかりの『日本文化』第7巻では明治維新150周年を特集している。そんな移民とのつながりを頭に置きながら、ぜひ読んでみてほしい。(深)