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高齢化社会で始まった「長すぎる老後」への挑戦=サンパウロ市在住 毛利律子=(4)=小説になった家庭内介護の実態

DVD映画『恍惚の人』(豊田四郎監督、東宝、森繁久彌出演、高峰秀子出演)

DVD映画『恍惚の人』(豊田四郎監督、東宝、森繁久彌出演、高峰秀子出演)

 「認知症」という言葉がいつごろから使われ始めたかと言うと、2004年からである。
 それまでは「ボケ、あるいは痴呆症」と言っていた。症状は「知能が後天的に低下した状態」で、「知能」「記憶」「見当識」を含む認知障害や「人格変化」などを伴った症候群である。人間以外の犬やネコでも発症するという。
 「痴呆症」と言っていた当時は、別の言い方で『モウロク(耄碌)○○、ボケ○○』などといった。深刻な症状になると日常生活をする能力を失ってくる。その頃の介護は当然家族が負担することになる。舅・姑の場合は主に嫁の肩にかかる。外には知られないように配慮しながら家族内で担っていたのであった。
 現在、介護環境が目覚ましく改善したと言われているが、介護疲れによる最悪なニュースは今でも後を絶たない。
 しかし、これは家庭内で起こることなので、当事者の苦労を他人が知ることは難しい。
 このような家庭内介護の状況を表沙汰にして、介護の在り方を世に問うた最も記憶に残る小説が、有吉佐和子の『恍惚の人』である。
 今日のような施設や専門介護士の制度はなかった頃のことで、後に日本人が直面する高齢化社会の深刻な問題の本質を先駆的に世に問いかけた作品であった。
 発表された年は昭和47(1972)年、当時の日本人の平均寿命は男性69歳、女性が74歳であった。
 翌年の1973年には森繁久彌、高峰秀子の共演で映画化され、全国的にセンセーションを巻き起こし、『恍惚の人』は流行語となり、福祉行政に大きな影響を与た。舅役の森繁久彌と嫁の高峰秀子の演技は題名とともに長く記憶に刻まれて離れない。
 小説の設定は、ごく普通のサラリーマン家庭の舅・姑・長男とその嫁・高校生の孫の暮らしに突然起きた「痴呆になった舅を介護する長男の嫁」で、作品は次のように展開する。
 主人公・茂造は84歳。75歳の妻が脳内出血によって突然に死んだことをきっかけに痴呆が始まる。彼は妻の死んだことを理解できない。茂造を支えてきた妻の急死は、茂造の症状を急速に悪化させ、それに伴って、平穏な普通の家庭生活が崩壊し、家族内の諸問題が一気に表面化する。
 茂造は、実の息子と娘の名前は忘れ、かつての酷い嫁いびりした長男の嫁・昭子と孫のことは分かっている。昭子の名前は最後まで忘れず、頼りにしている。
 しかし、弁護士事務所で働く昭子は、仕事、家事に加え、日に日に症状が進む舅の介護を一人で引き受けざるを得ない。
 一日に何度も要求してくる食事の世話から始まり、放尿、尿失禁、便失禁のために紙おむつを当てる。そうでもしないと、自分の便を手でこね、畳になすりつける。お風呂では溺れかけ、助かったと思うと肺炎を併発する。
 昭子は、そのつど必死に看病しなければならない。突如、暴言、暴力、徘徊などの異常行動が繰り返される。
 しかし、穏やかな時もある。認知症が進行したら何もかも失われてしまうわけではなく、その人が本来もっている「その人らしい良さ」は必ず残るという。昭子が優しく抱きしめるのは、本当の茂造だったのだろう。
 嫁として、母としての義務も果たしながら、しかも仕事も持つ。その上に、介護が加わると、「なんで私だけが…」という怒りが時々爆発する。家族も、昭子に対して腫れ物に触るように気を使いながら、何かと手伝う。
 そして、茂造本人がそれを一番分かっていたのではないかという余韻が感じられる。茂造の介護は一年も経たないうちに終わりそうな気配となるのである。
 この小説は、高齢者を抱えて呻吟する家族に、自分と同様の家族がいることを広く知らせ、高齢者とその家族が暮らしやすいための制度作りに拍車をかける契機となったと言われている。そして、2000年から介護保険の時代が始まった
 だいぶ前のことになるが、知人の家庭介護の対策のヒントをこの小説から探ったことがあった。
 知人のご主人は、認知症の程度がかなり重く、いつも奥さんを泥棒呼ばわりして暴力をふるい奥さんを苦しめていた。血相を変え、疲れ切って逃げ込んでくる奥さんをどこかに避難させなければならないこともあった。繰り返される暴力に、奥さんは「早く死んでくれればいいのに…」というのが口癖になっていた。
 それでもご主人をほっておくわけにはいかない。鎮まったころ見計らって家に戻ると、そこは悪臭が漂い、居間の家具はひっくり返っている。お金のしまいどころを探していたのであろう。御主人は臭気の漂う中で、ぼりぼりと物を食べている。その姿を見て、奥さんは泣き崩れた。どうすることもできない夫を抱えて絶望的だった。
 奥さんにも認知症の初期症状が現れ始めたが、子供たちは一切関わらなかった。少ない親戚とともに専門家の支援指導を受け、一つ一つ身の回りを清算して、長年住み慣れた小さな庭付きの一戸建ての家を売り、夫婦はグループホームの小さな一部屋に移った。
 その間の手続きや整理等々について、一切ご主人には伝えてなかった。御主人はその部屋が旅行中のホテルの部屋だと思っていた。「早く家に帰ろう…」と、度々奥さんを急かせて、困らせた。グループホームの人々との交流は全くなく、ほとんど部屋から出ずに、しばらくして亡くなった。穏やかで静かな死だった。
 「主人が死んだら自由に好きなことをするわ」と、強がりを言っていた奥さんは、燃え尽きて、後を追うように亡くなった。
 わずかな家財道具はあっという間に片づけられ、次の入所者が入ったと聞かされた。(つづく)