ブラジル映画史に残る文化運動「シネマ・ノーヴォ」を牽引し、国際的な知名度も高い映画監督のネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが21日、リオの病院で、癌に伴う肺炎のために亡くなった。89歳だった。22日付現地紙が報じている。
1928年にサンパウロ市ブラスに生まれたネルソンは、映画技師だった父の影響で、子どもの頃から映画に囲まれて育った。
その後はサンパウロ総合大学(USP)で法律を学び、ジャーナリストを目指していたが、1949年にフランスに渡った際、同国の映画に魅せられ、映画監督の道を志す。
帰国後はロドルフォ・ナンニ監督の助手などをつとめ、短編作などを作った後、1955年に「リオ40度」で長編監督デビューしたところ、この作品が物議を醸すこととなる。
同作ではこれまでのブラジルの映画で描かれることのなかったリオの黒人や貧しい人たちの実際の生活状況を描いたが、それが連邦政府の検閲に引っかかったのだ。
だが同作は国外へと知れ渡った。特にフランスで評価され、ジャン・リュック・ゴダールやフランソファ・トリュフォーといった、後に「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる映画史に残る文化運動を起こした監督に影響を与えた。
「過酷な現実描写」はネルソンを語る際に欠かせない要素だが、1963年には北東部の大干ばつを描いた「乾いた人生」を発表。ブラジルの文豪グラシリアーノ・ラモスの同名小説を映画化したこの作品は、グラウベル・ロシャ監督の「黒い神と白い悪魔」(64年)と共に、「ブラジルのヌーヴェルヴァーグ」とも呼ばれた「シネマ・ノーヴォ」の代表作と目された。同作は2016年にブラジル映画批評家協会が選んだ「歴代ブラジル映画ベスト100」で第3位に選ばれている。
また、1970年には、16世紀のブラジルの原住民の人食いの習慣を描いた「私が食べたフランス人」、1984年にはジェツリオ・ヴァルガス大統領時代のブラジルの監獄の真実を描いた「監獄の記憶」といった問題作も発表。カンヌ、ベルリン、ベネツィアの世界3大国際映画祭の出展の常連でもあり、86、93年にはベネツィア映画祭の審査員もつとめた。
映画監督生活の晩年はドキュメンタリー制作に力を入れ、ブラジルが生んだ、ボサノバで世界的に有名な作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンのドキュメンタリーなどを制作。2006年にはブラジル文学アカデミー協会(ABL)の会員にも選ばれた。23日の通夜も、ABLで行われた。
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