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県連故郷巡り=日本人ハワイ移住150周年=ホノルル・フェスタで交流=第2回=日布移民条約で移住許可

メモして明日からがんばろう

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 日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移住者で占められ、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイに渡った。
 1885年(明治18年)1月、日布(ハワイ)移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。
 これは官約移民と呼ばれ、1884年、最初の移民600人の公募に対し、2万8千人の応募があったとされる。そして946人が東京1号に乗り込みハワイへ渡った。
 官約移民は、初期に行われたブラジルのコーヒー契約コロノ移民と同じで3年間。「日本では考えられないような高額の金が稼げる」といったことをうたい文句に、盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買ともいわれ、半ば奴隷に近かった。
 労働は過酷で、監督が鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、そして1日10時間の労働と、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた。またこれは契約を満了するまで法的に認められなかった。1894年に民間に委託されるまで、約2万9千人がハワイに渡った。官約移民は1894年の26回目の移民をもって廃止された。
 官約移民の廃止と同時期に、民間移民会社が認可され、この移民斡旋会社を通した移民を私約移民という。移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれ、勢力を誇った。
 当時の国際取引銀行は英国HSBCの協力で設立された横浜正金銀行であったが、移民会社は共同で私設の京浜銀行も設立し、移民の郷里送金の代理業務なども行っていた。
 1900年のハワイ併合、アメリカのハワイ併合から4年後の1902年(明治35年)、ホノルル総領事館から出された、当時の移民統計数字では、オアフ島、マウイ島、ハワイ島、カウアイ島といった島々の主要な耕地で働く日系移民は3万1620人で、その他日雇いなど数字を正確につかめない日系移民は2万以上と報告されている。
 また併合後の新労働法では、契約労働はできなくなったから、耕主と利益を分配する小作や、収穫したサトウキビを搾り、煮詰め、砂糖にする工程にも機械工として従事する人たちもいて、その熟練度により高収入をあげる人もいたという。
 1908年の日米紳士協約などによりこれらの会社はすべて消滅し。これ以降、移民の家族や一旦日本へ帰国したが、再度移住を希望する帰米者のみ許可されるようになり、そうした者も1924年の移民法成立により、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となった。
     ◎
 故郷巡り一行は、ホテルのレストランで次の日からのスケジュールの説明を受け、ハワイのレストランが調理した弁当を受け取り、部屋に引き上げ弁当を食べた。
 この弁当は味もよく、それまで機内で出された食事にあきあきしていた一行を喜ばせた。ホノルルでは全部の県人会はそろわないものの、故郷巡りの何人かはハワイ県人会と連絡がついていたのか、歓迎夕食会に出席したようであった。ホノルルの夜は旅のつかれもあり熟睡した。(つづく、伊東信比古さん寄稿)