彼は日本の大手の建築会社に務めていた事、ほとんど世界をまたにかけての仕事で外国生活の方が長かった事。「定年間際、アフリカで駐在員をしていた時、家内が急死しまして私一人になってしまいました。日本は住みにくい。どっか外国に…と考えて、まず昔仕事で来たことのあるフィリピンに来たんです」。
ここで早速三〇歳年下のフィリピン人女性を見つけて奥さんにしたという。今では五歳の息子がいる。しかし奥さんは日本語も英語もしゃべれないし、彼もフィリピン語が片言しか話せない。「息子と会話がほとんどできないんです」と寂しそうに語った。
この国に限らずアジアの国々では日本人、西洋人を伴侶に見つけたら宝くじに当たったようなもの。西洋人にはちょっと近寄りにくいが、その点日本人は同じ黄色人種で近づきやすいからか、すぐに狙われる。独り者の日本人が来たらモテモテのモテ。これを振り切って帰れる者は少なく、ほとんどが沈没してしまう。
友人のM氏に「貴方は捕まらない。感心ね」と言うと、「僕に惚れるんじゃあない、僕の財布にほれてくれるだけです。皆そんな事が解からないんですからね」と口を尖らして言った。
フィリピン人は日本人と結婚したら一生安泰。うまく行けば日本に出稼ぎにだって行ける。生活費は全部出してくれる、お金を持っているからすぐに家くらい買ってくれる。不動産は外国人名義にはならないから総てフィリピン人配偶者のものとなる。何もかも良いことずくめだ。
T氏は「ここなら日本の年金で充分生活できますよ。それにこの大きな家百万円で買ったんです。日本では考えられないでしょう。物価は安いし生活費がものすごく安い。でもね食べ物だけは困るんです。馴染めない。それで友人に頼んで毎月年金の中から三万円分、日本食を送ってもらっているんです。やっぱり日本食を食べたらほっとして生き返ります。最高です」そう言って頬を少し上気させた。
「この頃はNHKが入るから日本語を聞けますが話す機会がない。今日こうしてきて下さったので思い切り日本語が喋れて嬉しいです。いやーよく来てくださった。日本語で話すと楽しいな。今日はいいなア、存分に日本語がしゃべれて」
お酒が回ってきたわけでもないのに、彼は饒舌、心底から嬉しそうである。そろそろお暇しようと言ったら、「待ってください、帰らないで下さいよ、もう少しいてください。ぼくがハヤシライスを作りましたから…もう朝から作って待っていたんです。食べていってください」と哀願するように言った。
「貴方達が帰ったら、今度また何年先に日本人が来てくれるかわからないし…こうやって毎日日本語でしゃべる相手があったらいいなー」とため息をつくようにして言った。彼は気持ちを素直に表現できる珍しい日本人だ。
気楽な恩給暮らしに若い女房と可愛い盛りの幼子、人が羨むような暮らしぶり、しかし言葉という壁、食文化の違い、そして郷愁、さらに老い、かつて企業戦士であったころは、女房の手前大いに威張っていたに違いない。
それがいま七〇歳に近い老人となり、異国で言葉の通じない家族と暮らしている。我々を引き留める語調にも寂しさがにじんでいて、見ている私のほうがわびしくなった。「日本男児ガンバレ」と言いたくなる。帰るとき彼は「また来てくださいよ、本当ですよ、来てください」と何度も何度も言った。車が見えなくなるまでいつまでもいつまでも見送ってくれていた。