太平洋戦争中に日本に滞在していた帰伯二世の菅貫太(92)さん――孫のロベルトさん(54、三世)が、祖父と同じように戦時中に日本に滞在していた帰伯二世を探している。当時、自費留学等で日本に滞在していた二世は約50人いたという。大半が二重国籍者であり、適齢期にあった15余人は徴兵され、うち7人が戦死したと見られている。帰伯二世の珍しい体験を本にして残すために、ロベルトさんが広く協力を呼びかけている。
日中戦争が勃発した1937年、当時10歳だった貫太さんは、姉・藤江さんと共に勉学のため訪日した。44年、中学5年生のときに学徒動員令により徴用され、終戦直前の7月に召集令状を受けた。原爆投下の一週間後に広島市の電信隊への入隊が決まっていたが、ギリギリで終戦を迎えた。
終戦直後、満州などからの引揚者で過剰人口を抱えた日本政府は、1951年に二重国籍者に対して国籍離脱を勧告、泣く泣くそれに従って帰伯した二世がいた。終戦直後にパウリスタ新聞の東京特派員を務めた二世の馬場兼介さんもその一人で、帰伯後にその経験を『故郷なき郷愁』(ニッケイ新聞刊、99年)に書いた。
貫太さんは48年に姉と共に帰伯した。日本での戦禍の試練に耐え抜いた貫太さんだったが、帰伯後にも困難が待ち受けていた。帰伯当時21歳だった貫太さんは、当地で18歳以上に課される兵役義務を履行していないとして、6カ月間、拘留される憂き目に遭ったという。
今回、貫太さんの経験をまとめた本を今年9月に出版する予定のロベルトさんは、「幼少期を親元から離れて過ごし、二重国籍者として心理的に複雑な境遇に置かれた帰伯二世の話は殆んど知られていない。それを経験した祖父もすでに90代。後世に残さなくてはならないと思った」と意義を語る。
編集作業を進めるジャーナリストのジョゼ・アントニオ氏も「戦時下の日本では生命を賭して戦いながら、敵性国民として憲兵の目が向けられた。一方、帰伯後も日本移民への差別が残存するなかでアイデンティティーを確立しなければならず、二重苦を味わったはずだ」と推察する。
ロベルトさんは「訪日留学できる子弟は、当時はかなり希少だった。帰伯二世は、いわば在日日系ブラジル人の先駆的な存在。子弟が滞日するのが容易になった今日だからこそ、彼らの歴史を知ることに今日的意義がある」と呼びかけた。
生存する帰伯二世がいたら協力者の奥原マリオ純さん(電話=11・95318・8682/メール=mariojun@hotmail.com)まで連絡を。