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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(1)

第一章 一度だけ見た正夢(一九九四年一〇月)

  一、死の淵を覗く

 風土病にかかり高熱と下痢のために入院して、二ヵ月が過ぎようとしていた。
 夕方、六人収容の病室から向いの一室に移された。私だけである。なぜだろうかと考えたが、意識が混濁して考えが纏まらない。電灯がともった頃、数日前若い女子社員がこの部屋に運ばれて来て、夜明けを待たずに死んだ事を思い出した。俺も死ぬんだろうかと、白い天井をボンヤリ見つめていた。
 入院も長くなると、見舞の人たちは間遠になった。熱と下痢は続いていて、私は痩せ細っていた。一九四四年一〇月一七日、新京神社(旧満洲国新京特別市)の秋祭りの夕方、病室を変えられて一人になると、次々に見舞客が来た。会社の人たちは口々に
「早くよくなれよ。直ぐに入隊だよ」
 と、励ましてくれた。上司の奥さんたちも代わるがわる見えて、お祭りのご馳走を枕元に並べた。
「しっかり食べて、早く元気になるのよ」
 と、入隊前の私を案じてくれた。
 その日、私が危篤状態になったものだから、皆さんが次々に見舞に見えたのだが、当のご本人は自分が死にかけているとは思いもしないで、ただ息苦しく床ずれが痛くて、荒い息をはいていた。見舞客が途絶え、病室は静かだった。いつの間にか、私は空間を漂っていた。頭の中に何かが渦巻いているようである。体の痛みもだるさも消えていた。
 (ああ、楽になった)
 そう思いながら漂っていると、いきなり大声が聞えた。
「おい、谷口よ。俺だ。明日入隊だ。一足先に征くぞ」
 同僚の佐藤平八である。その声でハッと正気付くと、空間を漂っていた躯は、寝台に横たわっていた。彼は巻寿司を一コつまむと、私の口の中にねじこんだ。
「しっかり食って元気になれ。明日は来る暇がないが、死ぬんじゃないぞ」
 彼はそう言い残して帰って行った。しばらくして、口中の寿司を噛んでみた。なぜかとても美味くて、二、三度口を動しただけで呑みこんだ。だが、続いて食べたい気持になれなかった。巻寿司一コのせいではないはずだが、翌朝私は危篤から抜け出ていた。
 生と死の間を往き戻りしていたのが、どうした加減か生の方へ引き戻され、発病二ヵ月余りのあと、峠を越した。あれほどひどかった熱と下痢がおさまり始めたのだ。
 あれから五二年後、サンパウロ市のさるご住職から
「あのような現象は、幽体分離現象というのです」
 と、説明を受けた。 

  二、夢

 自力で体を起こす力がなくて、まだ寝たきりであったが、意識の混濁はなくなった。窓外の秋の陽差しを、なつかしい思いで見とれるようになる。
 普通、夢は目覚めると忘れるものだが、回復期の夜明けに見た夢が、妙に強く頭に灼きつけられて、折にふれ思い出していた。
 夢は……。
 多勢の人たちと暗闇のなかを歩いているところから始まった。ずい分長い時間歩いて疲れきっていた。路は上り下りと曲折が多かったが、いつしか平坦になっていた。左側の木立が急に薄くなり、可成奥までおぼろに見透すことができた。右側の密林は黒々とした影をつくっている。間もなく路は鉄道の踏切りにさしかかった。左方には煙をはいている機関車の黒い影が、星空を背にしていた。踏切りを渡ると路は左に曲り、遥か前方に灯火が一つ揺れていた。