「どうしたら貴方の映画がみられるの?」――皇后陛下は山崎千津薫監督にそう尋ねたという。1996年3月、FHC大統領が国賓として日本を訪問した際、山崎監督は随行員に選ばれた。東京で両陛下に謁見した際、「ルッチFHC夫人から『日本移民の映画を作った監督』として私は紹介され、皇后陛下はそう尋ねられた」と振りかえる。
故ルッチ夫人は日本移民に関する論文まで書いた人物で、山崎監督とも交友があったので随行員に呼ばれた。山崎監督は「当時DVDは一般的ではなく、宮内庁の職員はあたふた。結局はブラジルから送ることにした」と笑った。
日本移民の日18日、サンパウロ州立移民博物館が映画『Gaijin – Ama-me como sou』(2005年)を特別上映するにあたり、監督が記者会見した際、そんなエピソードを披露した。
冒頭の映画は、彼女の長編監督第1作目の『Gaijin』(1980年)のことだ。仏カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。当時としては異色の作品で、監督のお婆さんチトエの実体験から脚本を練り上げた。
31歳でそれを作り上げた同監督(三世)も、もう69歳だ。
冒頭の話には後日談があり、実は翌年に皇后陛下と再会した。1997年5~6月、移民90周年を一年前倒しにして天皇皇后両陛下がご訪問された時だ。
ルッチ夫人からブラジリアに呼ばれ、皇后陛下を囲んで「女子会」が開かれた。「その時に皇后陛下に『ファゼンダ・サンタローザはどうなったの?』と聞かれた。私は最初何のことか分からずポカンとした。でも、すぐに『Gaijin』の舞台になったファゼンダ名だと思い出し、驚いた。皇后陛下は間違いなく映画を見てくださったと確信したわ。その時に第2作目を作る話がでたの。そこから始まったのよ」と明かした。
その直後、両陛下はリオもご訪問され、再び謁見する機会があり、ほぼ100歳になっていた祖母チトエを連れて行ったという。「オバアチャンはもうひれ伏さんばかり、大感激だったわ」と懐かしそうに思い出す。
監督に「日系人はどんな特質を遺すべきか」という質問をすると、「勤勉さ」と「ガランチード(信用)」を真っ先に挙げた。「日系人の伝統は残すべきだと思うけど、残念ながらなかなか難しいのが現実でもある」とも。
「子供のころ学校で当たり前のようによくイジメられたわ。『小さい頃、お前たち日本人が死んだら僕らはフェスタをするんだ』と言われたことすらある。今ではブーリングという言葉があるけど、当時はそんな表現はなかったし、差別が良くないものという意識も薄かった」。
彼女が生まれ育ったのは南大河州ポルト・アレグレ、日系人が少ない土地だ。日系人がほぼいない映画界において徒手空拳でのし上がった精神的な底力は、そんな辛い子供時代に養われたのかもしれない。
「もともと第1作は『移民のブラジル到着と定着』、第2作は『大戦』、第3作は『現代』という構想だった。最初はデカセギ現象を中心に作ろうと思ったけど、脚本を練るうちにどんどん前段の移民史部分が膨らんで、ああなったの」と第2作を説明した。
「1980年に東京映画祭で『Gaijin』で上映した際、私は絶対に日本でもこの映画は受け入れられると確信して訪日した。ところが、上映が終わった後、東宝映画社の社長と会う機会があり、その時にこう言われたの。『この映画を日本で紹介するつもりは一切ない』。はっきり言ったのよ。その時、私はもう発狂するかと思ったわ。後でわかったけど、日本では『移民』という歴史的事実はタブーだったのね。だって、多くの人は食べるものがない、仕事がない、生活できないから移住したワケでしょ。だから日本人的には恥ずべき歴史と考えているんじゃないかしら」と首をひねった。
つまり、皇后陛下が「ぜひ見たい」と思われる映画が、東宝社長には「売れない映画」になる訳だ。皇室の発想のグローバルさに感じ入るとともに、民間人の発想の狭さを嘆かざるを得ない。
「私の最初の映画では、日本移民が初めてモルタデーラを食べて気持ちが悪くなって吐きだすシーンを描いた。でもガイジン第2作では、デカセギが日本に行って最初に探したのがモルタデーラだった」と彼女が豪快に笑った姿を見て関心した。端的に言って「それが110周年だ」と感じたからだ。実に興味深い記者会見だった。(深)