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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(8)

   第三章 抑留(一) (一九四五年八月~一二月)

  一、博克図仮設収容所

 夜間強行軍ののち博克図陸軍病院の仮設収容所に集結した連隊の生存者約一五〇〇名は、食料の支給がないまま草を食い、木の皮を噛み、夜間の寒さにふるえながら毛布一枚の野営を強いられた。
 周囲を取り囲む柵は一重だが、二・五mもの高さに有刺鉄線を一五㎝間隔に張りめぐらしてある。四隅の望棲には、銃を構えた監視兵が四六時中見張り、柵の外側は警備兵が銃を肩にかけて間断なく巡回している。将校たちは戦争犯罪人として裁判があるということで、収容所内は下士官と兵だけである。
 空腹に耐えかね同期候補生二人が夜間に柵を乗り越えて、病院裏庭の野菜畑へ行ったが、射殺されてしまった。
 八月末になった。溜り水に薄氷が張り始め、毛布一枚で夜露に濡れる野営には耐えられなくなった。
 九月一日、大倉庫に収容される。藁が厚く敷かれていた。藁がこれほど暖かいものとは知らなかった。二日早朝、わが日本軍は開戦以来二〇日目に食事を支給した。飯盒に半分ほどふんわりとよそった白米と、蓋にそそがれた味噌汁である。汁には乾燥コマツ菜が二切れ浮いていた。食後、倉庫前の広場に集合する。壇上にはソ軍将校と日本軍の佐官が立った。ソ軍将校が喋った。
「諸君は本日、シベリア鉄道を経由し、ウラジオストックから日本へ帰国することになった。満洲国内の鉄橋は、終戦時日本軍によって爆破され、通行不可能になっているからである」
 日本軍の将校が立会っているから、だれもソ連軍将校の言葉を疑わなかった。その日の午後、仮収容所下側の屋根のないプラットホームに整列して列車を待った。間もなくチチハル方面から汽車がきた。しかし停る気配はなく、長い貨物列車は通りすぎてゆく。貨車の小窓には有刺鉄線が十文字に釘付けされて、抜け出せないようにしてある。その小窓に日本兵の顔が覗いていた。
「一足お先に」とか
「日本へ帰るぞ」
 などと、口々に叫んで通過していった。貨車の小窓の有刺鉄線を不審に感じるべきであったが、日本軍将校立会いでソ軍将校が喋った(日本帰還)の言葉でだれもが舞上っていたからそのことを口にしなかった。


  二、家畜のごとく西へ

 それから間もなく貨物列車がホームにすべりこんだ。乗り込む時、ソ連兵から握り拳二コ分の大きさの黒パンを渡された。黒パンの外皮は厚さ一㎝ほどの固いセンベイ状で、中味は真黒で粘っていた。これがパンだろうかと思われる代物である。
 貨物に押しこまれた人員は、およそ七〇人余り。機関銃中隊のものばかりである。貨車の前側には二m幅に上段が造作されていて、別れていた中隊長、見習士官などがその上に座っていた。乗車が終ると扉が閉められた。同時に錠がかけられたが、誰も錠のことに不審を抱かなかった。日本へ帰るというのだからこの貨車から飛び出して、逃げるものはいないはずである。なのに外へ出られないように錠がかけられた。