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日本移民110周年=サントス日本語学校の完全返還=ようやく訪れた「本当の終戦」=(1)=上さんの執念の秘密はどこに?

右がサントス日本人会の橋本広瀬春江マリセ現会長。6月18日にサントス日本語学校で行われた名義変更の署名式(大澤航平記者撮影)

右がサントス日本人会の橋本広瀬春江マリセ現会長。6月18日にサントス日本語学校で行われた名義変更の署名式(大澤航平記者撮影)

 先週7月8日は、戦時中最大の日本移民迫害といわれるサントス強制立退きから70周年という節目の日だった。しかも今月は、日本から眞子さまをお迎えして日本移民110周年の式典が各地で開催される大事なタイミングでもある。それゆえ、先月の「サントス日本語学校の完全返還」は110周年を象徴する出来事と言えそうだ。そこまでの流れを、長いこと返還運動を引っ張ってきた上新さんとの関わりから辿ってみた。これはサイト「ディスカバーニッケイ」(http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/7/4/brazil-110-shunen-1/)に初出、そこからの転載。(深沢正雪記者)

 「日本語学校は戦争中に敵性資産としてブラジル政府に凍結、接収された。我々、日系人の手にそれが戻ったときこそ、私の終戦です」―これは返還運動を20年以上も孤軍奮闘、引っ張ってきた上新(かみ・あらた)さんの口癖だった。
 ブラジル日本移民110周年を迎えた6月18日、そのサントス日本語学校の地権の名義変更署名式が行われ、正式に連邦政府から地元日本人会に返された。つまり、上さんの「戦争」が、戦後73年を経てようやく終わった。
 6月20日付エスタード紙も「76年後に家の鍵が戻った=大戦中に接収した日本人邸宅を連邦政府が返還」と報じるなど、ブラジル・メディアにも大きく扱われた。
 残念ながら本人は直前の3月11日、95歳でなくなった。でも記者には、上さんが背筋を伸ばして天国で高らかに万歳三唱している姿が目に見えるようだ。
 上さんはニッケイ新聞(前身のパウリスタ新聞でも)のサントス地方代理人として、新聞代金徴収や購読者からの苦情受付などの業務を長年引き受けてやってくれた。ときどき編集部に電話をくれ、「もっとサントスに取材に来なさい。日本語学校返還運動の記事を書きなさい」と叱咤激励してくれた。
 記者がブラジルに来たばかりの1992年頃、上さんに連れられてこの日本語学校の門の前まで行ったことを、昨日のことのように覚えている。
 当時は軍の施設として見張りが立ち、機密保持のために写真撮影すらも厳禁されていた。来たばかりの私は「下手なことをして軍にしょっ引かれたら…」などとオドオドと腰が引けていた。
 だが上さんは堂々と建物を指さして、「ほら、奥の建物がみえるでしょ。あれが日本語学校だった。僕も一回も入ったことないんですよ。戦争で接収されて、陸軍から使っているから。でも、いつかコロニアに返されないといけない。だからそのことを記事に書いてくれ」と繰り返し言った。
 見張りが怪しそうな表情で見返す姿をみて、私はハラハラし、心臓がドキドキしていたのを憶えている。と同時に「どうして上さんはこんなに度胸が据わっているのか」と不思議に思った。
 上さんにケツを叩かれてパウリスタ新聞のトップ記事にしたが、内心では「こんなこと書いても実現は99%不可能だろう。上さんはたった一人で巨大な軍にたちむかうドン・キホーテだ」と思っていた。
 聞けば、上さんはサントス日本人会の活動の一環として1975年から会報『聖南』(月刊)の編集・執筆をしていたという。その中で、会員の親睦と共に日本語学校返還運動についても繰り返し書いていたという。
 その熱意が評価されて1978年には会長に就任し、2003年まで25年間も任された。会報は1992年頃に200号を迎えたところで終わってしまったが、手書きの謄写版で130部ほど印刷し続けたという。
 いま思えば、泣く子も黙る軍事独裁政権(1964~1985年)の間に、邦字紙や会報という〝紙つぶて〟をコツン、コツンと根気強く投げ続けたわけだ。その性根が座った性分は、一体どこから来たのだろう。(つづく)