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日本移民110周年=サントス日本語学校の完全返還=ようやく訪れた「本当の終戦」=(2)=政府批判に腰が引けていた邦字紙

日系社会のドン・キホーテ、上新さん(2016年9月7日、深沢撮影)

日系社会のドン・キホーテ、上新さん(2016年9月7日、深沢撮影)

 ブラジル日本移民百周年の際に、百年史編纂に関わり、邦字紙の歴史を書いた。その時に痛感したのは、ブラジル政府批判に関して邦字紙はどこも腰が引けていたことだ。邦字紙には1941年にゼッツリオ・ヴァルガス独裁政権によって強制廃刊させられた辛いトラウマがある。
 その当時の幹部らが終戦直後1946年から復刊させ始めたので、政府にたて突けば同じ様に廃刊させられると考え、政府批判一切をタブーにした経緯があるからだ。
 その傾向は、反政府活動家や共産主義者を暗殺、勾留・拷問した軍事政権時代(1964―1985年)にはさらに顕著になった。だいたい邦字紙も検閲されていたから、何かあれば経営陣は検閲局に呼び出された。そのビクビクした雰囲気は、私がきた1992年当時も残っていた。
 例えば、日本において麻薬取締法違反で国際指名手配された日本人容疑者がブラジルに逃亡し、1994年3月に連邦警察に逮捕された直前のことだ。
 私が当時記者をしていたパウリスタ新聞の編集部に連邦警察の捜査官が、容疑者の手帳を手に入れたので翻訳を依頼に来たことがあった。その時「旧DOPS(政治経済警察、日本の特高のような存在)の部署にいた捜査官がくる」と編集部が極度にピリピリした雰囲気になった。民政移管から10年近くが経っていたにも関わらず、だ。
 政権側からすれば、上さんが投げつけた「紙つぶて」は、痛くもかゆくもなかっただろう。でも、返還運動は一種の政権批判であり、投げる側には相当の覚悟が必要だったはずだ。
 でも、いつの間にか時代の方が変わった。軍政時代の諜報機関による反政府活動家への暗殺・拷問を告発するのに熱心な労働者党(PT)が2003年に政権をとり、流れが一気に変わった。奇しくもその年に上さんは81歳を越えて体力・気力が衰えたと、会長職を遠藤浩さんに譲った。
 でも、在任中の1994年までに返還を求める署名運動、返還に必要な書類集め、法的な手続きを進めていた。1994年には、本人もサントス強制立退き者である伊波興祐(いは・こうゆう)下院議員にお願いして、全面返還を求める法案を議会に提出していた。
 だが議会での上程待ちが続き、その後、ジョアン・パウロ・パパ(Joao Paulo Papa)連邦下議の先導により緊急案件に入れてもらったが、それでも審議を待つ状態が続いていた。
 大きく動いたのは、ブラジル日本移民百周年という節目だった。百周年を2年後にひかえた2006年12月、遠藤浩会長と連邦政府国有財産局の代表が、同敷地の「使用権」をサントス日本人会に認める契約書に署名したのだ。
 ただし、この時はあくまで『使用権』の無償譲渡であって、「地権」自体は連邦政府のままだった。ボロボロになっていた建物を改修し、2008年6月に皇太子殿下をお迎えして落成し、日本語教育を中心にした日本文化センターとして生まれ変わった。
 それが今回、地権の名義変更をして完全返還になった。

特攻精神で原始林を切り開いた移民たち

 上さんは1922年3月15日に福岡県直方市(のおがたし)に生れ、11歳だった1933年に両親に連れられてブラジル移住した。最初は平野植民地、その後、バストス移住地近くのモンテ・アレグレ植民地、戦後はリンスを経て、1956年にサントスへ転住した。
 平野植民地は1915年に創設された日系最古の集団地の一つで、当時知られていなかったマラリアにより入植開始からわずか半年間で70人以上が次々に亡くなった悲劇の開拓地として有名だ。いま思えば、当時の開拓者はまるで特攻精神で突撃するように原始林を体当たりで切り開いていった。上さんが次に行ったバストス移住地周辺、リンスも当時日本人が最も多かった場所だ。
 上さんが19歳だった1941年12月に真珠湾攻撃。その翌月、米国はリオで汎米外相会議を開催し、アルゼンチンののぞく参加10カ国(ブラジル含む)に枢軸国との経済・国交の断交を決議させた。
 その直後から日本移民抑圧は顕著となり、42年1月に公の場所での日本語使用禁止、保安局の許可なしの移動や引っ越しの禁止などの処置が発表され、その時に住んでいた移住地に釘づけされ、事実上の隔離場所、強制収容所のような役割を果たした。(つづく、深沢正雪記者)