1942年1月にブラジルが連合国側について以来、ドイツ潜水艦による米国向けブラジル商船などへの攻撃が始まった。ブラジル政府はその対抗処置として、枢軸国側移民の資産凍結を始め、4月からはDOPS(社会政治警察)が日系社会の主だった指導者を次々にスパイ容疑で収監し、拷問する時代になった。
そんな収監者を支援するために、1942年5月に「サンパウロ日本人カトリック救済会」が組織され、同胞社会が一番苦しい時代にひそかに支援をしてきた。
日本人が公の場所に3人以上集まることが禁止された時代に、そんな団体が結成できたのは、当時のカトリック大司教ドン・ジョゼ・ガスパール氏が後ろ盾になってくれたからだ。カトリック教会を隠れ蓑にして拘留者に差入れをすることができた。ブラジルはたくさんの隠れキリシタンを移民として受け入れてくれただけでなく、一般の日本人移民もこのような形で大変な世話になった。
度重なるドイツ潜水艦のブラジルや米国商船撃沈により、1943年7月8日にはサントス海岸部からの枢軸国移民の24時間以内強制立ち退き令が出された。あまりに人数が多かったためかイタリア移民は退去させられず、日本移民6500人を中心にドイツ移民数百人が、長年爪に火を点すようにして貯めた家財をタダ同然で投げ売って、警察に銃剣で脅されながら移動させられた。
夫が仕事中で連絡が取れなくても、妊婦や病人まで移動させられ、精神に病をきたした人もかなりした。この時に、サントス日本語学校は資産凍結され、終戦直後に接収された。当時のジャーナリスト、岸本昂一はこの事態を「南米における日本移民の出エジプト記」と名付けた。
勝負け抗争の原因となった戦前戦中の日本移民迫害
当時の救済会の活動報告書類には、はっきりと「戦時引上げ人」の欄に「1942年 コンデ街引上げ1500人」「1943年 サントス引上げ6500人」と書かれている。同会は、発足した42年(日本と国交断絶)から、国交が回復して日本国大使が着任した52年までに、貧困者、養老者、孤児、精神病者ら延べ1万7000人以上の世話をした。
本来、在外公館がすべき「邦人保護」の仕事を、民間として一手に引き受けてきたわけだ。
1953年3月の救済会総会の史料には、こんな記述もあった。《先ず気狂人(編註=当時の表現のまま)から申し上げますと、サンパウロにはジュケリーとピリツーバの二病院は七千人からの発狂者が収容されておりますが、その内約一割の七百人は日本人であります》
つまり、ヴァルガス独裁政権による枢軸国移民への強圧状態の中で、日本国外交官は1942年7月に交換船で帰国し、日本移民は精神的に追い込まれて大量の精神異常者が生まれていた。そこにこそ終戦直後に、勝ち負け抗争が起きる根本的な原因があったと思う。
当時の日本移民の9割は、5~10年ブラジルで働いてお金を貯めて錦衣帰郷するつもりで来ていた。永住目的なら子供にブラジル学校で勉強させて現地適応させることを考えるだろう。だが、デカセギ目的なら日本式を貫く。
ヴァルガス独裁政権は「黄禍論」を振りかざして日本移民を敵性国人として心象付ける世論形成操作の中、周囲のブラジル人からは「敵国人」としてバカにされる日常を何年間も送った。
と同時に、本人らはホームシック、郷愁という病にも襲われていた。まったく海外慣れしていない田舎出身の日本人が、戦争によっていきなり10年以上も帰国できない状態に置かれ、日本での生活を渇望する気持ちが極限に達し、病といえるレベルになっていた人が相当数いたと推測される。
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現代でも「外国生活不適応」と診断される駐在員や留学生は沢山いる。私自身、6年間ほど日本に帰らなかったことがある。久しぶりに帰国した際は、日本の生活の全てが新鮮に見えた。皆が同じような顔をして日本語をしゃべり、コンビニに見たことともない美味そうなスイーツが並んでいるのを見ただけで、不思議なほど感動した。その時、帰りたいのに帰れない状態を15、20年も耐えさせられたら、一体どうなることだろうと考え込んだ。(つづく、深沢正雪記者)