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日本移民110周年=サントス日本語学校の完全返還=ようやく訪れた「本当の終戦」=(5)=皇太子殿下「ごくろうさまでした」

奥からキヌ子夫人、娘の小代子さん、上新さん

奥からキヌ子夫人、娘の小代子さん、上新さん

 戦後「負け組」になったのは主に、戦前の同胞社会指導者や企業家らだ。彼らはその立場ゆえに、戦中にDOPSから資産凍結や理由の不明な長期勾留などの不当な扱い、人によっては拷問までを受け、独裁政権に対して心が折れてしまっていたのではないか。そんな理不尽な戦時中の処遇に、ひたすら従順に耐え忍ぶことで生き延びる道を選んだ。
 だが、そんな立場を持たなかった移民大衆は、戦中の拷問に遭うことは少なく、逆に政権への闘争心を燃やした。
 だから、終戦直後になって勝ち組と負け組に分かれたとき、政権からの報復を恐れた負け組は官憲と組んで、勝ち組を粛清する側に回ったのではないか。
 同胞社会の大半を占めたはずの勝ち組は戦後に弾圧を受け、日本への想いを表に出せなくなり、心の奥深くに秘めて保ち続けた。しかし、それがあったから戦後の日系社会の日本語教育が続けられ、日本文化継承が熱心に行なわれた。
 だが、戦後編纂された移民史においては、一般的に「勝ち組=狂信者」との単純な図式に押し込められ、その貢献が徹底的に削除された。
 彼らがまさに“狂信的”に日本文化継承に献身したからこそ、ある程度の日本語や日本文化が残った現在のブラジル日系社会がある。これは後世からの視点として、しっかりと認めるべきではないか。
     ☆
 上さんの姉は戦前にサントスに嫁ぎ、戦中に強制退去させられた。その姉が戦後にサントスに戻ったとき、上さんはそれを頼ってリンスからサントスに移った。そして、強制立退きの理不尽な事実を聞いた。
 「当時は強制立退きから戻って来た人がたくさんいた。着の身着のままで24時間以内に立退きでしょ。みんな悔しがっていた。中には夫が沖に漁に出ている間に家族が強制立退きになって、数年間お互いの所在が不明だった人も」と上さんは憤りながら言っていた。まったく残酷な話だ。
 上さんは強制立退きの事実を聞き、青年期から心に奥に静かに燃えていた熾火に風が吹きこみ、一気に闘争心の炎が燃え上がったに違いない。資産凍結と強制退去という歴史的な誤りの象徴として、サントス日本語学校返還に情熱を燃やした。だから、ドン・キホーテになれたのだ。
 上さんは「日本人はいつでも、どこでも日本人だ」と繰り返した。そんな信念を持った人だったので、ある時「日本に何回ぐらい帰ったんですか?」と尋ねたことがある。その時、少し恥ずかしそうに「一回も帰っていないんです」と答えたのを憶えている。
 私が不思議そうな表情を浮かべて、説明を待っていると、上さんの横にいた奥さんが「昔はお金儲けしないと帰れなかったんですよ」と仕方なさそうに合いの手を入れた。私は、ああ、なるほどと腑に落ちた。勝ち組的人物はすぐに相手に同情して商売を度外視するから儲けるのが下手だ。だが、それゆえにまったくお金儲けにつながらない返還運動にも情熱を傾けられた。
 サントス日本語学校の落成式が2008年6月に行われた際、こ臨席された皇太子殿下は、上さんに「ごくろうさまでした」と声をお掛けになられたという。
 彼の生涯において、これ以上ない報いがえられたことであろう。(つづく、深沢正雪記者)