沖縄県人会に協力要請する以前に、奥原さんは日系社会を代表する組織、ブラジル日本文化福祉協会にもお願いしたが、断られていた。すでに当事者の大半が亡くなっており、当時を知らない世代ばかりになった今、「今さらそんなことをほじくらなくても」という声も強い。そんな流れに掉さす様に奥原さんは運動を続けている。どこか、かつての上さんを思わせる動きだと記者は感じている。
日系社会の1割を占め、強力な団結力を誇る沖縄県人会は、110周年の機会に法務省アネスチア委員会での審議を早める要請をするのに力強い味方になる。
労働者党(PT)政権時代に鳴り物入りで始まった、軍事独裁政権時代の人権侵害の実態を調査する真相究明委員会。その流れで、戦争前後の日本移民迫害に関する公聴会が2013年にサンパウロ州議会で開かれ、その内容が同委員会報告書に記録されたことを受け、15年に奥原さんはアネスチア委員会に提訴した。
北米では80年代に政府謝罪、南米は軍政…
米国では1988年8月にレーガン大統領が市民の自由法に署名して、第2次大戦中に強制立ち退き・収容された日本人移民および日系アメリカ人に対し公式に謝罪し、各自に2万ドルを支払うことを承認した。同様に、日系カナダ人も損害賠償を請求する訴訟を1983年に始め、1988年9月に、カナダ政府は個人だけでなく、日系社会に対して損害賠償を行うことを決定した流れがある。
だが、南米では60年代から80年代半ばまで軍事独裁政権が続き、民主的な歴史の見直しという機運に水を差すどころか、フタをする状態になっていた。ようやく見直し機運が高まったのは2000年前後から各地で左派政権が樹立して以降だ。
だが、同委員会には約2万件もの訴訟案件が山積みされており、現在審議されているのは2000年代前半に提訴されたものだという。だが、上さんが今年亡くなったように多くの戦前移民は次々に他界している状況だ。奥原さんは一日でも早く謝罪を実現するべく、後押しをしてくれる日系団体を探していた。
そして、今回のサントス日本語学校の名義変更式典がまさに日本移民の日の6月18日に行われた。その時、ブラジル人政治家として首都で尽力してくれたパパ連邦下議は「戦争の最中に起きたこととはいえ、間違いは間違い。それを認めるのがこの返還といえる。この歴史が忘れられないように知らせ続け、恒久平和を共に作り上げていくことを象徴する空間になってほしい」との言葉を贈った。
サントス市のパウロ・アレシャンドレ・パルボーザ市長も「正義、平等、尊敬を基盤とした新たな歴史の一章が始まった。世界では原理主義や排外主義がはびこっている。だが日本人がブラジル建国に貢献し、築いてきた歴史からは、多人種が共存する平和な未来を考える上で多くの示唆を与えてくれる。この返還は日本移民と我々の協同の努力の成果だ」と関係者の積年の努力をたたえた。
今回の返還は、ブラジル人政治家側の協力なしにはあり得なかった。まさに「協同の努力の成果」だ。そのプロセス自体に意義が深い。そのような協力が成り立つうちは、戦争前後のような迫害は起こりえない。
ブラジル日本移民110周年という機会に実現した完全返還の意義は、「外国人移民を平等に扱って平和共存する」ことではないか。過去の失敗を現在に活かすために、いまこの世界中でこの歴史は真剣に見直されるべきではないか。(おわり、深沢正雪記者)