「眞子さまのお言葉は僕らに癒しを与えてくれた。ブラジルに暮らしている僕らのことを、日本の人たちは忘れていないんだと思わせてくれた」。21日、県連日本祭りで110周年記念式典が終った直後、なにげなく参加者の声を会場で集めていたとき、小西ジューリオ武雄さん(60、二世)からそんな感想を聞いて考えさせられた。
「そんな切実な気持ちでこの式典にきていたんだ」と思い、癒しがなかった日々のことを想像するに、どこか胸の奥深くをえぐられるような感じがした。
翌22日のマリリアでも、眞子さまの歓迎式典を取材するなかで癒しを感じた。
☆
会場となった市立劇場で高齢者のコメントを集めていたら、突然、背広姿の日高徳一さん(92、宮崎県)に出くわして驚いた。一週間前に電話で話したとき、「ワシャ、呼ばれちゃおらんから、眞子さまが植樹をされる場所のできるだけ近くまで勝手にいくつもりだ。たとえ体調が悪くなっても這ってでもいく」と言っていた。
終戦直後の勝ち負け抗争のとき、強硬派として負け組幹部殺害事件に直接関係した一人だ。だが事件後に自首してキチンと罪を償い、この町で自転車屋を創業してまっとうな人生を歩んできた。日本国や皇室を篤く想うがゆえに、当時の勝ち組大衆の気持ちを背負って犯した事件だ。
その勝ち負け抗争において最も死傷事件が多発したのはマリリアからオズワルド・クルースに至るパウリスタ沿線だった。
その発端となったのは、1946年1月にツッパンで起きた「日の丸事件」だ。軍警の軍曹が汚れた軍靴を日の丸でぬぐったのを日本人青年が目撃して、日本語学校にいた仲間に伝えた。いきり立った青年らは、その真偽を問いただすために警察署に詰めかけたら、問答無用に逮捕・留置された。その一人が日高さんだった。すべてはそこから始まった――。
そんな勝ち負け抗争から10年余りが過ぎた1958年、汎マリリア日本移民50年祭委員会の瀧谷芳三委員長は、三笠宮さまを歓迎した際の挨拶で、《ブラジルに住みついた私たち移民の本当の姿をご覧になられる為にこの奥地まで御光来くださいました事は、私たちの終生忘れ得ぬ喜びであります。顧みますれば、この地に移住してから五十年、ふみ越えてきた幾多の困難辛苦も、今日の両殿下のご訪問によってすっかり拭い去られて余りある感じが致します》(『汎マリリア三十年史』77頁、1959年)と万感の想いを込めて語った。
当時、日高さんら強硬派は受刑中で、歓迎したい気持ちは山々だったが、式典に出られる状態ではなかった。だから2008年、百周年で来伯される皇太子殿下を一目見たさに、入場券を入手するためにマリリアからサンパウロ市まで3回も通った。
日高さんは今回も、なんとか眞子さまの近くへと思い、それまで特に面識のなかったマリリア日系文化体育協会の水野ケンイチ会長に直談判に行ったそうだ。そしたら、「あんたが日高さんか、劇場に来てくれ」とあっさりと招待状を渡された。
移民50年祭で瀧谷委員長は、《今日の両殿下のご訪問によってすっかり拭い去られて余りある感じが致します》と挨拶したが、実際は、コロニアのどこか奥深い所に抗争の余韻は残っていた。今回、眞子さまのご来伯を一緒に祝うことによって、それを断ち切るいい機会だとコラム子は感じていた。
日高さんに「昨晩はよく眠れましたか?」と聞くと、「昔は立派な愛国者が一杯おったけど、ワシみたいな一番のバカタレが生き残ってしまった。ワシなんか、ただの自転車屋のオヤジですよ。それがこんな立派な場所に入らせてもらって、なんて名誉なことか。昨日の晩は、先輩たちの顔を一人一人思い浮かべておりました。みんなが生きておれば、眞子さまが来られることをどれだけ喜んだかと…」と声を落とした。
三笠宮殿下お手植えのイッペーはどれか?
市立劇場でたまたまインタビューした町田幸子さん(84、二世)から、「三笠宮が来られた時、紫イッペーを植えられたのをはっきりと覚えています。プラッサにはたくさんの人が集まって祝っていました。50周年の記念碑の横、句碑の後ろのイッペーがそうです。あまり大きくなっていませんが、枯れることなく、今も同じ木から毎年キレイな花を咲かせていますよ」と聞き、「やっぱりそうか!」と膝を打った。
町田さんはマリリア生まれで現在も住む。1929年市政開始で創立89年の町だから、まさに町と共にある人生だ。
移民50年祭は60年も前のことであり、実は当日、式典関係者ですら、市役所の庭に数本あるどのイッペーが三笠宮殿下のお手植えのものか判断しかねている様子だった。しかも現地のブラジル人ジャーナリストが「最初、桜を植えたが枯れてしまい、後からこっそりイッペーを植え直した」という話をさも真実のように語っていたのを聞き、驚いた。
三笠宮同妃両殿下ご来伯時のことを伝える『汎マリリア三十年史』76頁には、しっかりと《ここで三笠宮殿下はブラジル国花の樹イッペーをお植えになられた後、盛大な歓迎祝賀大会にご出席になった》とあるからだ。最初からイッペーを植えたのに、なぜデマがでまわったのか不思議だ。
60年前の歓迎祝賀大会には市民2万人が押し寄せたとある。殿下が「市長閣下がこの地方邦人はよく働き、マリリア市発展のために尽くしてくれたと聞いて大変嬉しく思いました」と挨拶されると、《二万の群集中、特に日系人は感激の極みに達し拍手はしばし鳴り止まなかった》(同)とある。
たまたま隣で取材していた市議会に務める地元ジャーナリストのラモン・フランコさん(39)に聞くと、「マリリアに外国を代表する王室関係者が来たのは、三笠宮に続いて今回が2回目。だいたい自分の国の現役大統領ですら、1962年のジョアン・グラールのみ。今回はわが町にとって本当に貴重な機会だよ」と興奮した様子。
眞子さまの印象を尋ねると「とてもシンパチカで、純粋性を感じる。優雅なふるまいで、愛くるしい声をされている。なんというか〃東洋の平和〃を感じさせる」と熱く語った。
ここはパウリスタ線地方の中心都市で、人口は23万5千人もいる。決して小さな町ではないが、国内的に注目を浴びることは少ない。そんな町に皇族が2回も訪れたのは、日系人が多く住んでいるからだ。皇族が地方都市をご訪問されることで、かくも大きな交流の輪が広がる。
日伯小旗の海に浮かぶ眞子さま
市立劇場での歓迎式典に出席された眞子さまは、その足ですぐ近くの市役所前庭に向かわれ、200人ほどの市民が歓迎の小旗を振る中、三笠宮さま同様、イッペーを植樹された。
植樹の後、車に乗り込まれる直前、眞子さまは突然、沿道に並ぶ市民一人ひとりと握手を始められた。子供には子供の目線まで腰をかがめて握手をされ、高齢者には両手で包み込むように優しく握っていた。
これはマスコミへの事前説明にはなかったこと。みるみる市民の興奮が高まり、10分以上かけて握手し終わって車に乗り込むときには、市民の感激は最高潮に達していた。別れを惜しんで熱烈に振られる小旗が波のように見え、眞子さまが日伯両旗の海に浮いているような幻想的な光景となった。
車が立ち去った後、沿道にいた日高さんに改めて感想を聞くと、「ワシにも握手して下さった。感激しました。…もう思い残すことはない」と目をうるませ、穏やかな表情を浮かべていた。思えば日高さんの盟友、蒸野太郎さんは百周年で皇太子殿下を間近にみた翌年、山下博美さんも翌々年に静かに亡くなった。
皇室という存在がコロニアにもたらすもの、それは癒しだ――。ご本人がどうそれを意識されているのかは分からない。でも日本人のDNAには、そのように刷り込まれ、それが日系人にまで継承されている。前日に続いて、そう確信した。(深)