ホーム | 日系社会ニュース | 安永家ルポ1=村総出で〃おもてなし〃=全伯から一門50人参集=「身は亡びても生命は不滅」

安永家ルポ1=村総出で〃おもてなし〃=全伯から一門50人参集=「身は亡びても生命は不滅」

大祭典を裏から支えた安永家の皆さん

大祭典を裏から支えた安永家の皆さん

 【プロミッソン発=大澤航平記者】式典前日の21日夜に記者が現地入りすると、ねじり鉢巻で最終準備が進められていた。普段は人影も少ない上塚周平運動場だが、巨大な特設式典会場が設営され、赤提燈に照らされた手作りの桜の木のオブジェが夜桜のように映え、目を疑うほどの変わりようだ。
 その式典を支えた陰の功労者が言えるのが、プロミッソンの安永家一門だ。上塚植民地創立に共鳴して、初代の安永良耕ら3人が入植。その子孫が一世紀の間に400人以上に繁栄し、連邦区、マリンガー、サンパウロなど全伯各地に散らばった。うち約50人が前夜から集結し、夜更けまで準備に奔走した。
 翌22日朝午前6時頃、まだ仄暗い暁に、安永和教さん(71、三世)は「遠方から来られる方が沢山おられる。カフェやサンドイッチを出しておもてなししないといけない」と語り、続々と到着する芸能団体関係者らを会場で温かく迎え入れた。
 場内では「遠方よりおいでくださり有難う御座います。十分足元に気をつけられて、移住地をご覧下さい」と挨拶を繰り返し、まさに心からの〃おもてなし〃だ。
 スタッフの服を着た安永家の若い三、四世は一日中、会場内を駆け回った。式典後、提燈の後片付けを済ませて帰宅したのは、深夜一時過ぎであった。
 そんな一門の若手の働きぶりを見て、安永修道さん(67、三世=マリンガー在住)、益博さん(64、三世=ペナポリス市在住)感心したような表情を浮かべていた。
 二人は「移民50周年祭典を思い出すよ」と語り、青年時代の昔話に花を咲かせた。「あの頃はトラックの荷台に乗って、ミランドポリスまで上塚街道に植樹するイペー・ブランコを取りに言ったなあ」と懐古する。
 60年前、移民50周年祭典では4千人以上が上塚公園の運動場に集まり、特設会場として横52メートル、幅32メートほどの大きな櫓が組まれた。骨組となるユーカリや竹の伐採から始まり、全てが手作業で行われたという。まさに手作りの祭典だった。
 『ノロエステ邦人発展誌吾邑實』(中村東民著、1962年、パウリスタ印刷株式会社)を紐解くと、良耕さんの一節「記念塔の意義―栄光あれプロミッソンー」がある。
 《日本人がブラジルに来て半世紀も過ぎ二世三世の時代に移行しておる。どんなに時代が代わり環境が代わろうとも、吾々の生命は悠遠なる昔から沢山なる祖先の生命が親を通して現在の吾々の身体の中に生き続け、それが既に子に伝わり孫に伝わっている現実を見るとき、肉体は亡びても生命の不滅を知ることが出来るのである》
 現在、プロミッソンの日系人はわずか百世帯ほどだが、最盛期以上の大祭典を開催した。地域の結束の強さを見た聖南西の小川彰夫理事は、「この祭典には心がこもっている。それをひしひしと感じる。コロニアが消えていくという声を聞くが、誰のことを言っているのか。こういうものを是非見て学ばなければ」と感激した様子で語った。