日本時間6日(木)深夜3時に発生した北海道南西部を震源とする地震の2日後に出発した帯広畜産大学の奥田潔学長が、サンパウロ市で9日に行なわれた同大学第40回OB会出席のために来伯し、地震発生時の様子や被害の深刻さを報告した。OB会には遠方からも参加者が集まり、地震被害に共感を寄せると共に、思い出話に花を咲かせた。
帯広畜産大学は国立で唯一の農学系単科大学で、獣医学科と畜産学科を有する。北海道地震で帯広は震度4の揺れで直接の被害は少なかった。だが、道内全域が停電となり、帯広空港も自家発電による運行になった。
地震発生が深夜3時だったため、自宅で就寝していた奥田学長は飛び起きたという。「発生直後から停電で明かりが一切つかなかった。外の住宅街も真っ暗で恐怖を感じた」と振り返る。
住んでいるマンションでは水道を電気で制御しているため断水に。幸い地震直後はスマートフォンに電波がつながっていて、インターネットで情報を得ることができた。しかし、数時間経つとその電波も弱くなった。結局その後2日間に渡って停電に見舞われた。
大学も影響を受けていて、最も深刻だったのが搾乳用の機械が使えなくなったこと。牛は長時間搾乳されないと「乳房炎」という病気になってしまう。道内ではこの病気のために牛が死ぬ被害がすでに報告されている。
同大学では急きょ学生に協力を呼びかけ、手絞りで搾乳した。電気が復旧するまでの2日間で80頭から4千リットルを絞り、被害を免れた。
一方、出荷先の乳業会社が仕入れを停止していたため、絞った牛乳はすべて廃棄することになったという。奥田学長は「廃棄した牛乳は堆肥にした。停電が長引かなかったのがせめてもの救い」と話した。
OB会には卒業生10人とその家族がサンパウロ、パラナ、マットグロッソ、マラニョンの各州から集まった。同会は40年前に西川義正学長(当時)が来伯した際に、卒業生が集まったのをきっかけに結成した。
第一回目から参加している飯崎貞雄さん(77)は「よくここまで続いたなという思い。感無量です」と言う。「初めの頃は男同士で酒を飲んでいて険悪になることがあった。そのうち家族も参加するようにしたら和気藹々となったんです。それが長続きの秘訣だったかもしれません」と笑って話した。
自身も同大学の卒業生である奥田学長は「院もあわせて生徒1300人ほどの小さな大学。それゆえに地球の反対側で集った皆さんからは並々ならない仲間意識の強さを感じる」と感心した様子で話した。
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帯広畜産大学の一期生で1953年に卒業した井田善郎さん(88)と長田直春さん(88)も出席した。長田さんは「もともと海外に行く野心があって井田さんに誘われてブラジルに渡った。金儲けよりもロマンだった」と懐かしむ。卒業して1年半後に渡伯したふたりは初めサンパウロ市イタケラ区の桃農場で3カ月だけ働いた。その後、井田さんはサンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市で養鶏に携わり、長田さんはコチア市で競走馬の育成を生業とした。交友を続け、大学入学時から70年の仲になった。井田さんは「二人ともこの年まで元気でいるのがありがたい。同窓会のたびに会えるのが嬉しい」と言い、長田さんと懐かしい思い出話にふけっていた。
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帯広畜産大学はパラグアイ事務所を有しており、奥田学長は来伯の前にその視察に訪れた。毎年学生がJICA青年ボランティアとしてパラグアイに滞在し、酪農技術の指導などを行っている。奥田学長は「ブラジル同様、日系人の功績により活動が好意的に受け止められている。やりやすい環境だ」と話した。同学では農学大学としては珍しくスペイン語を学ぶことが出来る。このまま南米との連携を強めれば、いつかポルトガル語の授業も開講するかも?