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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(44)

「広島はどこかね」
「市内の己斐町だよ」
「僕も己斐本町だ。駅前の高野食堂の息子の哲雄というもんだ」
「なんだ。高野さん、谷口ですよ。新京ではお世話になりました」
 高野さんは私が入隊前勤務していた満州電信電話株式会社の大先輩で、しかも同じ町内の出身である。数回食事を共にしている。
 彼は堰を切ったように、一気に喋りはじめた。
「七月の根こそぎ動員で召集され、すぐに終戦だ。シベリアまで官費旅行をさせられ、ひどい目に遭った。僕はここで入退者の書類を作成している。ここには各地から病弱者が集められ、一列車づつ送り出されている。どこへ行くのか分からないがね。残されて作業につかされるものもいる。もし君が生きて帰ったら僕の両親にここで元気にやっていた。と伝えてくれ」
 そんなことを喋り、思い出したように、
「君たちの食事は今夜はなしだよ。いつも連絡なしに、いきなり送り込んでくるから準備できないんだ。明日から食事はでる」
 彼が帰り、しばらくすると大きな握り飯を持ってきてくれた。塩がよくきいた白高梁だった。彼の厚意が嬉しくて、ボロボロ涙をこぼしながら食った。
 昭和二二年帰還した私は、高野さんのご両親を訪ね当時の様子を伝えた。
 昭和二四年シベリアから復員した彼は、基町の広島電報局に勤めるようになったと、ご両親から知らせがあった。電報局へ行き、当時のお礼を言ったが、以後生活に追われる日々で、とうとう会う事もなかった。

  一五、また身体検査

 ノーバヤでは一〇日近く滞在しただろうか。私たちより先着した集団が、使役に出るということだった。午後使役から帰ってきた連中に、様子を訊ねた。
「松林で落葉を集め、貨車の中に敷いてきた。カンボーイはお前たちを運ぶ準備だと言ったぞ」
 次の日、数百人が乗車して出発した。東西どちらの方向へ行ったか、誰も見たものはなかった。最初シベリア鉄道を経由し、ウラジオストックから日本に帰還すると、思いきりよく騙され、死ぬほどの目に遭わされている。行き先はしらせないだろうが、ソ連の言うことは信用できないぞと、戦友たちと話し合った。
 数日後、宿舎横の広場に集合せよ。身体検査を行うと触れが来た。素裸になり、軍医に尻を向けて立つ。見るだけで右と左に選り分けている。モルドイと同じ方法である。一方は見ただけで栄養失調症と分かるグループ、片方はそれより見た目が良い。私は後者のグループに選り分けられた。カンボーイは広場の四隅に立っているが、警戒している様子はない。二つのグループの間に仕切りはしてなかった。何気ない振りをして、弱者のグループに滑り込む。咎めるものはいなかった。弱者のグループにいれば、悪いことは起きないだろう。今モルドイ村より数倍暖かいノーバヤにいる。これだけでも幸いであった。
 これは比嘉伍長のお陰であった。彼の先見と決断に感謝し、もう一度の幸運にかけた。