アサイ市で取材した6月上旬、年に1度の「農産品評会」が開催されていた。日系農家が切磋琢磨することを目的に1935年に始まり、現在は太鼓の演奏や盆踊りが行われ、市民が日本文化を楽しむ機会になっている。
来場していた永露嘉人(ながつゆよしと)さん(90、福岡県)に話を聞いた。永露さんは幼少期に両親兄弟とともにブラジルに移住した。戦前だった13歳のとき、日本に残した土地を整理するために父とふたりで帰国した。数カ月で戻るつもりだったが、翌年太平洋戦争が勃発し帰る手段をなくしてしまった。
親子ふたりは母親と兄弟をブラジルに残し、仕方なく福岡県大刀洗村(現大刀洗町)にあった親戚の家に留まった。父親が働いて生計を立て、永露さんは学校に通った。
永露さんは45年に17歳を迎え徴兵検査を受けたが、視力が弱いことを理由に徴兵を免れた。父親も50近い年齢だったので召集の対象にならず、そのまま8月の終戦を迎えた。
記者が「終戦のとき、どんな気持ちでしたか」と尋ねると、「日本が負けるのはわかっていた。動揺は無かった」と答えた。45年4月、空襲が激しくなったため山の中腹に疎開した。アメリカの戦闘機が市街地を掃射しているのを山から見て、「日本には迎え撃つ兵力がもう無いんだ」と思ったという。戦後は大工仕事や農作業をして暮らし、ブラジルの家族には手紙で敗戦を知らせた。
戦後のアサイにはコーヒー栽培で成功しその資金で日本に帰国できる人たちもいて、永露親子の知り合いが福岡まで会いに来たことがあった。その人から「アサイではほとんどの人が日本の戦勝を信じている」と聞き、「なんでそんなことが起きているのだろう」と思った。
母親、兄弟と離れたまま12年間過ごし、日本からブラジルへの移住が再開した53年にやっと再会できた。永露さんはブラジルを発ったとき13歳だったが、戻ったときには25歳になっていて、「母親から大きくなりましたねと言われた」と思い出す。
再びアサイで生活を始めた永露さんは、近所の人たちが「日本は勝ったんだ」などと噂しあっているのをときどき耳にした。日本で終戦を体験した永露さんにとって不思議でならなかった。
戦争に勝ったか負けたかを公に議論する人はいなくて、永露さんは「あんまりはっきりしたことを言うと言い争いになりかねず、皆それを避けている」と察した。だから、友人の兄から「日本は本当に負けたのか」と聞かれたとき、その場しのぎで曖昧な返事をした。
永露さんは「50年代中頃には勝ち負けの話をほとんど聞かなくなった」と言う。53年に日本からの戦後移住が始まったことで、日系社会に敗戦の認識が広がったとされる。アサイにも新たに戦後移民が住み着いていた。(つづく、山縣陸人記者)