農産品評会の会場を後にし、清水八起(やおき)さん(88、二世)の自宅に向かった。清水さんはアサイで生まれ育ち、長年コーヒーや綿花などの栽培に従事してきた。80年代にはパラナ州農務局が面積あたりの綿花収穫量を評価し、2度の表彰を受けている。
大戦中の1943年、商品券を偽造して使ったブラジル人を、兄たちが警察署に突き出したところ、その犯人が署長の息子だった。理不尽にも兄たちの方が捕らえられ、暴行を受けた末、重傷を負った。敵性国民だった日本人は所有する土地や車を没収されるなど、他にもいわれない迫害を受けた。
清水家は戦後すぐにサンパウロで料理店を営んでいた叔父から日本の敗戦を聞かされた。叔父は店に通っていた在サンパウロ総領事館元職員から教えられていて、確実な情報だった。
清水さんは「太平洋戦争が始まった後、外交官はほとんど日本に引き揚げたが、わずか数人がブラジルに残っていた。父は敗戦を知って泣いていた」と述懐する。
終戦から5年が経ったころ、青年会の集まりで兄が「日本は負けたから援助しなくてはいけない」という内容の作文を発表した。他の青年たちが「勝ったのに何で援助が必要なんだ」といきり立ち、清水兄弟は会への出入りを禁止されてしまった。
1950年と51年に勝ち組と負け組みがそれぞれ団体を設立するなど、このころのアサイは双方の溝が深かった。負け組の団体が日本への支援を取りまとめていたので、清水家はそこを通して物資を送った。
清水さんは「出入りを禁止されてから、青年会のほかにも勝ち組の家族との付き合いが完全になくなった」と話す。5年後、人望が厚い日本語学校の先生の仲立ちでようやく行事に参加できるようになった。
市街地から車で15分ほど離れた地区に住む熊田照彦さん(88、福島県)も戦後早くから敗戦を認識していた。一家は1936年にサンパウロ州北部のリベイロン・プレットに入植し、40年ごろからアサイに移った。
終戦後、父親の弟が日本から送ってきた手紙で敗戦を知った。両親は周りの日本人移住者に話したが、誰も信じてくれなかった。そのうえ、地域のリーダー格が熊田家のこと悪く言い、そのせいで兄の縁談が破談になった。
敗戦を知っていてもリーダー格からの嫌がらせを恐れて黙っている人もいたという。勝ち組が憎かった熊田さんも「人前で勝ち負けの話をすると命のやり取りになりかねない」と考え、口をつぐんでいた。(つづく、山縣陸人記者)