乗船してみて日本海を横断するには、船が小さ過ぎると思った。その上、甲板と海面の差は一mあるなしである。これでは日本帰還は危険だ。とすれば、ここから遠くない地に私たちを運び、体力を付けさせて再びシベリアへ送り返すのではないかと、悪い方に考えが傾く。
しかし、目の前には朝鮮北端があり、右側の満州に地続きである。いずれも冬季の厳しい寒気に、病弱者は耐えられないだろうし、食糧事情が少量の薄粥から好転するとは思われない。とすれば超満員のこの船は、一体どこへくのだろうか。どうどう回りの思案に疲れ、船室の板壁にもたれて腰をおろした。そのうちに寝入ってしまった。
二二、日本兵満載の同型船とすれ違う
振動音で目覚めた時には、船は沖合を進んでいた。太陽の位置は右側である。狭い甲板に出て海の空気を胸一杯に吸い深呼吸を繰り返す。気分が落ち着いてきた。船首から大きな騒めきが起きた。この船と同型船がこちらに向かって来ている。一〇〇mぐらい近くをすれ違う。その船には日本兵が、こちら以上に乗っている。彼等は口々に叫んで一斉に手を振っている。
=一足先に日本へ帰るぞ=
シベリアへ連行される時、線路際で列車の到着を待っている私たちの前を、チチハル方面から上がってきた先行の貨車の中からお先に、とか、日本に帰るんだ、と叫んでいた光景が、目の前をすれ違う船に重なった。あの船の進行方向は、私達が来た方向である。シベリアに向かっているのを知らないで単純に日本へ帰るんだと信じている。ソ連側は、この度もダモイ(帰国)と言うことは、一切発表しなかった。
もしこの近くに病弱者を運んで健康体に戻し、再びシベリアへ送り返す可能性がないとはいえない。すれ違った同型船を見て、以前想像した不安が再び蘇った。だが、先程すれ違った船の日本兵は、一体どこから来たのか。そして私たちはどこへ運ばれているのか。分からないことばかりである。
(註)ソ連側は在シベリアの役に立たなくなった病弱捕虜を北朝鮮に送り、その穴埋めに在北鮮の日本兵捕虜を、シベリアに送ったと言う。情報を封じ込める体制の中にいたから、あの時点で北鮮がソ連の支配下に置かれていたことなど、知るよしもなかった。『スターリンの捕虜たち』ヴィクトル・カルポフ著、二〇〇一年翻訳書発行、を読んで、私たちの穴埋めに、在北鮮日本軍捕虜が、シベリアへ送られて行ったことを知ったのは、あれから五八年後の二〇〇四年のことであった。
第五章 生還(一九四六年七月~四七年一月)
一、北朝鮮の清津から三合里へ
病弱兵に紛れ込んでモルドイ村のラゲーリから、ノーバヤへ逆戻りした頃から、月日の記憶が次第に曖昧になった。なぜか理由は不明である。
ポセットを出航した日の夕方、小さな漁港に上陸した。七、八時間の航行だから、朝鮮北部だろうと推測する。