ホーム | 文芸 | 連載小説 | 私のシベリア抑留記=谷口 範之 | 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(51)

自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(51)

 今夜はこの浜辺で一泊だ。浜辺に座ると太陽で温められた砂地が心地よく、眠気を誘う。
 昨年九月、モルドイ村へ連行される途中、一泊した夜の猛吹雪に凍えたことを思い出した。
 今日も食事なし。砂浜に横たわっていると、背中が温まり、空腹なのに眠ってしまった。何度か目覚めその度に澄んだ夜空の星をみつめた。
 翌朝、無蓋車に乗車。最初の駅は『清津』であった。プラットホームは、朝の出勤時の白シャツ姿の人群れで混雑していた。その中から、青年が一人抜け出したかと思うと、素早く辺りを見回し、つと私たちが乗っている無蓋車へ近寄った。彼は巻煙草を数本投げて寄越しながら、
「日本時代の方がよかったよ」
 といい、さっと人群れに戻った。
 プラットホームを通り過ぎる人たちは、私たちと視線を合わさないように、足早に去って行った。

  二、三合里駅とゲンノショウコ

 清津駅を出発した列車は、すぐに山間部へ入った。進行方向は北である。帰還するのであれば、南へ行かねばならない。またしても、不吉な予感がする。このまま北進すれば、国境の町会寧である。豆満江を渡ると、満州国図們に通じる。そんなことを考えているうちに、数駅を過ぎて停車した。
 駅名は三合里。山の中のさびれた集落である。ここで全員下車。北進しなくて安心した。両側から山が迫っている路を歩いてゆく。ところどころに泥壁の破れ屋が路端に建っている。とある破れ屋の中から、
「日本人の山猿、日本へ帰れ」
 と、少年の金切り声が飛んできた。大人が三人道端に立って、捕虜の一行を睨むように見すえている。明らかに敵意のこもる視線であった。
 私たちはそれらを無視して黙々と歩く。昨日から一匙の粥も、水も啜っていないのだ。彼らと喧嘩する気力などなかった。
 山間の道を抜けて坂を下りると、見事な稲田が目の前に開けた。黄金の稲穂が目にしみて、荒んだ心が和らいで来た。
 用水路を挟んで右側に、田圃がひらけている。よく整備されている農道を行くと、中程の左側に、モルタル塗りの瀟洒な住居が建っていた。人の気配はなかった。先程見た山際の破れ屋と、全く対照的な風景である。
 前を行く年配の人が、用水路に沿って生えている雑草の間から、
「ゲンノショウコという胃腸の薬草だよ」
 と、いって引き抜いた。教えてもらい、私も一束ほど引き抜いて雑のうに括りつけた。これが後で私の命を救ってくれることになるとは、夢にも思わなかった。
 農道が終わると道は右に曲がり、狭く急な上り坂に変わる。一列縦隊になって進む。左側は錆びた有刺鉄線が三段に張ってあり、その向こうは急に落ち込んでいる。有刺鉄線に沿って、生垣風に植えてある潅木に、菱形の実がなっていた。食えるかもしれない。手を伸ばして探り、柔らかい皮をむいて噛んでみた。蓮の実のような味がした。五,六コ採ったところで、生垣は終った。