▼戦火の果てに――
オバーと母と親族の死
1945年4月にアメリカ軍の海からの艦砲射撃、空からの爆弾が雨嵐のように大きな爆音を轟かせて襲ってきました。当初家の近くや村の山手の防空壕に難を逃れていた村の人々は、「早く逃げろ」と口々に叫んで村を後にしました。
オバーは、家のすぐ近くの防空壕で一緒でしたが、「もう自分はあるけんから、早く逃げなさい、早く」と、僕と母を追い立てるように叫びました。これが僕を可愛がってくれたオバーとの最後の別れでした。
あの叫びが今も耳元に残っています。
僕たちは逃げる人々の後を追っかけて、母と僕と父の母親の御婆さん、それに父の兄の妻とその子政義の5人で、浦添から首里を通って与那原におりて、大里から糸満の近くに行きました。道行く途中、米軍機の機銃攻撃を受け、道の側溝に飛び込んで隠れました。そこに大きな轟音と共に艦砲が落ちた。
途端に僕の上にドカンと大きな物が飛んで落ちてきた。血だらけの人の手でした。道を歩いていると、濠の前や中には人の死んだ姿がいっぱい横たわっていました。母も一緒に逃げていたお婆さん、伯母さんもその子の正義も、皆艦砲の破片で負傷を負って歩き続けました。
追われに追われて喜屋武福地という部落に辿り着いた。そこの公園のような広場に小さな茅葺小屋が幾つかあり、人たちがそこにいたので、母はその小屋の人に傷にぬる油がないか貰いに行きました。
途端にそこに轟音もろとも爆弾が落ちた。僕も正義も御婆さんも叔母さんも吹き飛ばされた。正義も足に大きな傷を負い、僕も腰と頭が血だらけになった。気がつくと母の姿はどこにも見えない。
母と僕の別れの時でした。
傷ついた僕たちは、前を行く人たちの後を追った。しばらく行くと人の家が見えたので、お祖母さんたちがそこに入っていきました。途端にまた大きな爆音とともに爆弾が落ちた。家が吹き飛ぶように崩れ落ちてお婆さん、叔母さんが下敷きになり、火が燃えお婆さんたちに移ってきます。お婆さんが早く逃げなさいと叫んでいます。
僕は何もすることが出来ず、政義の手を握って唯々立っていました。
今僕は、インタビューに応えながら、あの時のことがはっきりと蘇り、7歳で傷ついた自分が何もできるはずもなかったのに、胸が苦しくなります。
僕より2つ年下の政義は、泣きながら負ぶってくれ、と言うけれど、傷ついた僕にできるはずもなく、2人は手を引いて人々が行く方向の後をついて行きました。すると前を行く人が「追ってくるな」と怒鳴るので、人たちが見えなくなるとその後を追って歩いていました。
何処を歩いたかわかりませんが、そこに日本人のようなアメリカ兵たちが現れて僕たちを連れて行きました。この時の様子は、何故かよく覚えていない。きっと疲れ果て安堵して眠り込んだのだろう。
▼捕虜収容所の中で
連れて行かれた所は、あとでわかるのだが、玉城村(現南城市)の捕虜収容所でした。
頭から体中白い粉(DDT)をかけられて、折り畳み式の簡易ベットに寝かされました。衰弱していた僕は、オシッコをしたくても起き上がることもできず、寝たままション便をして、看護師に叱られていました。
苦々しい記憶で、何故か鮮明に覚えています。やがてそこからコザ近辺(今の沖縄市)にあった収容所に連れて行かれました。捕虜収容所での食事は、味のないボロボロジューシーばかりで、今思えば、あの戦後の米軍配給米で作った粗末なボロボロジューシーでした。
僕の身体は、衰弱したままで玉城村の収容所以来全身疥癬の皮膚病になり、トラホーマで目も開けることも出来ないほどになっていました。だんだん食欲もなく寝てばかりでした。(つづく)