▼しまんちゅの志情
そんな時に僕の部落の近所に住んでいた伯母さんが衰え切って寝たままにされていた僕を見て、「あんた、政吉か」と気付いてくれ、立つことも出来ない僕を引き取って自分の家に連れて行ってくれました。
この伯母さんがギギチャーという木の葉を沸騰させたお湯に浸し、僕の身体を拭いてくれました。すると不思議なことに疥癬は急速に良くなり、目のトラホーマもすっかり治りました。
僕は、叔母さんに感謝の気持で一杯でしたが、その時までオカーのこともオバーのことも艦砲の爆風で吹き飛ばされたかのように、想うことも思い出すこともなくなっていました。あんなに大事に育て、可愛がってくれたオカーとオバーのことが頭から消えていました。捕虜収容所で全身の皮膚病とトラホーマで衰弱した身体に堪え横たえていることで精一杯だったのだろうか。僕は、伯母さんの志情に助けられ、戦争で天涯孤独となった自分を子供ながらに思い、オカーとオバーのことを思い起していたように思います。
▼戦後の政吉叔父との生活
やがて親戚の人が訪ねて来て、僕を浦添の村が作った収容所のような所に連れて行きました。そこでしばらく生活して後に、親富祖家のムートゥ屋(本家)に引き取られました。
そこから浦添小学校3年生クラスに通学しました。しばらくして、僕の父の弟3男政吉叔父さんが南洋ニューギニアの戦場がら引き揚げてきました。政吉叔父さんは戦争の前は福岡県にある農業試験場で働いていたそうですが、赤紙が来て戦地に送られた。
ニューギニアの戦場は激戦で日本軍は壊滅、生き残った者たちは草を食べて飢えを凌いだそうです。その政吉叔父に許嫁の人もいましたが、野戦看護婦に志願し沖縄の山野のどこで戦死したのかもわからないのです。
長男叔父さんも赤紙で兵隊に取られたが、戦場で身体を悪くして帰ってきて亡くなったという。4男叔父さんも沖縄で当時18歳で兵隊に取られて(おそらく郷土防衛隊)、戦場のどこで戦死たかもわからない。その遺骨さえ分からない。僕の父の兄弟たちは、3男政吉叔父さん以外は皆戦争で死んだのです。
その政吉叔父さんが戦場から帰還して、しばらく本家で生活しておりました。そのうちに自分の家を建てたので、僕もそこに移り叔父さんと2人で生活しました。学校もそこから通いました。政吉叔父は、僕を育てるために一生懸命だったと思います。
しかし僕は叔父さんとそりが合わず反抗ばかりしていました。叔父さんと農作業している時も、家の中にいる時もいつも叱られていました。叔父さんは仕事を言いつけるけれど、どのようにするか教えてくれない。やり方が分からずに叱られるわけがわからず反発ばかりしていました。
それで家を飛び出して道をブラブラ歩いて、ひもじくなると米兵たちが塹壕や山の中に残してある缶詰などを探し出して食べたり、畑の芋を失敬して食べていました。また、道をぶらついて歩いていると、隣近辺のおばさんたちが、「今日もまた家から飛び出したのか。トートー自分の家に泊まりなさい」と誘ってくれ、夕食も食べさせてくれた。
優しくしてくれた母もオバーも亡くなって天涯孤独となった幼少年の頃の僕の仕様でした。
▼中学校から定時制高校へ――良き教師との出会い
中学校に進級して後もこんな調子で僕は一人で遊んでいました。中学になると1年生の時から、受験組と非受験組にクラスが分けられ、僕は非受験組でした。このクラスは、暴れん坊ばかりで先生に反抗する者もいた。僕は、この暴れん坊たちが先生に色んなことで抗議したり、吹聴したりする時に、先生に告げる役目をさせられていました。
こんな風に1年から2年生を過ごしていました。
3年生に進級して僕たちのクラスは、当間先生という女の先生が担任となりました。
その年に夜学定時制高校が新設され、3年生の終わりの頃に2期生の募集が始まりました。当間先生から、「親富祖君、あんたは受験しなさい」と勧められ僕は、「はい」と答えていましたが、そのままにしていました。しばらくして先生から、「叔父さんにお願いしてないのですか」と聞かれた。
黙っていると、先生は僕の家を訪ね、叔父さんに話してくれました。
叔父さんは、「お前が畑仕事も山羊の草取りも立派にやってくれるなら、受験して学校に行きなさい」、と言ってくれたのです。
そこで僕は首里高校の夜間定時制高校に受験をしました。すると、間違って合格したわけですよ。どうせ合格はしない、という思いであったけれど合格した。家の周辺の人たちや区長さんが、「おめでとう」と訪ねて来るので僕はびっくりして、おもがゆくもあったけれど内心嬉しかった。
こうして僕は、昼は叔父さんの畑仕事を手伝い、夜は学校に通い勉強しました。(つづく)