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県連故郷巡り=アララクアラ、ノロエステ巡訪=(2)=協和植民地の遠い記憶=開拓で気候一変、不作に

ジャーレス出身の日野さん(右)

ジャーレス出身の日野さん(右)

 ジャーレス日伯文化協会での朝食の合間、今回初参加で、ここで育ったという日野寛幸さん(72、福岡県)に話を聞いた。日野さんは1957年に家族で移住。翌年、同市郊外の協和植民地に入植した。当時11歳。小学3年生まで植民地で過ごし、4年生からは親戚の家から、市街地の小学校に通ったという。
 「当時は野球の試合が楽しみで、カミニョンの荷台に乗って大会に行ったもんだよ。近隣からチームが集まり、大会が3日間に及んだくらいだった。だから大小10近くの植民地が近くにあったんじゃないかな」と述懐する。
 日野さんによれば当時、植民地は約100世帯。珈琲栽培に加え、米作が盛んだった。だが、農地拡大のため密林が切り開かれると気候が一変。急に雨が降らなくなったという。
 「気候が変わってから珈琲は花が咲いても実がつかなくなった。出て行く人が後を立たず、植民地は萎んでいった。父は植民地で指導的な立場にあり、弓場農場のモデルを植民地に持ち込もうとしたが、結局は70年頃に町を出た」と振返る。
 日野さんが、ジャーレスを訪問したのは10年振りだが、会館を訪れたのは子供の時以来。「街を出てからこの会館を訪れるのは初めて。昔の面影がまだ残っているよ」と目を細め、「子供時代の楽しみは、月に一回の巡回映画だった。何もない時代だったから、それは待ち遠しかったよ」と郷愁に浸っていた。
 日野さんは、この後の旅先で、思いがけない運命的な巡り合わせに遭遇することになる。
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 朝食の後、ジャーレス日伯文化体育協会が計画した一日観光の説明があり、一行は隣町ウラニアの苺農園に向かった。

天然の木葡萄を味見する参加者

天然の木葡萄を味見する参加者

 そこでは苺狩りが楽しめるようになっており、苺を使った製品も販売されていた。参加者はうなだれるような暑さのなか、新鮮な苺のジュースで喉を潤し、木陰でしばし一休みしていた。
 そこに座っていた一人に声をかけると、ジャーレス在住の坂下平さん(83、熊本県)、前述の州議員候補者であるエジソン氏の父だった。
 坂下さんはグアララペスで少年時代を過ごし、結婚後に同市に移住。68年から牧場を経営し、現在は息子の代となっており、牛350頭を飼っているという。「当時はアスファルトもない泥道で、電気も通っていなかった。今は本当に生活がよくなったもんだ」としみじみと語った。
 苺畑に足を踏み入れてみると、その奥には旧アララクアラ鉄道の線路が見えた。農園の職員によれば、同線はサントスから北はミナス州を経てゴイアス州まで続いており、現在は貨物列車のみが運行しているとのことだった。(続く、大澤航平記者)