「50年に視察にきた時は、まだ何もない荒山だった」――そう語るのはドラセーナ在住の柏浦正一さん(89、埼玉県)だ。トメアスー第8回移民でアカラ植民地などを転々とし、市制開始から2年目だった1951年、22歳の時に「未開拓の荒山を開拓したい」と夢を追って、ここに辿り着いた。会館建設の逸話を中心に、町の歴史の貴重な証言を集めてみた。
ドラセーナにパウリスタ鉄道の駅ができたのは1959年。ツッパンやオズワルド・クルスのもっと奥のどん詰まりだ。パラナ川沿いの終着駅パノラマまであとわずか、サンパウロ州内で最後の新開地だった。
開拓地を求めるのであれば、あとはパラナ州やマット・グロッソ州に行くしかなかった。だから終戦頃この辺は「これから鉄道が通過して開ける場所」「今は土地が安いが、いずれ便利になって高くなる」と注目が集まっていた。
柏浦さんは「当時、この辺は安くて広い土地が購入できた。棉も一年で三倍値段が上がるような年もあったくらいだよ」と述懐する。新天地を求めパウリスタ沿線を中心とした都市から転住者が増加し、市制からわずか5年で人口は1万2千人に膨れ上がった。
柏浦さんは西隣のオウロ・ベルジに30アルケールの土地を購入。「カマラーダを引き連れて開拓から始めたんだ。若いときはとにかくそれが面白かった」と豪快に笑う。
同沿線は勝ち負け抗争が激化した地域だが、柏浦さんによれば「勝ち負けが終息した後に出来た街だから、転住者はそれに嫌気が差していて、腐れ縁を捨ててきていた。だから、『そんなことは言うてくれるな』という雰囲気でしたよ」と話した。
柏浦さんは、その後、68年にドラセーナ市に移転し、現在は東隣のジュンケイロポリスで暮らす。「もう当時のことを知る一世は指折り数えるほど」と寂しそうに当たりを見回し、「僕は会館建設(87年)に寄付した一人。これだけ立派な会館はそこらにないよ」と自慢げに語った。建築面積が1千平米ほどもありそうな、大きな建物だ。
当地一世では最高齢で、会発足当時からの事情を知る吉村武(94、広島県)さんも「骨は折ったけど、いい会館だろう」と異口同音に語る。「あの時は寄附帳を持って、一軒一軒廻って募金をお願いした。皆がかなりの金額を出して作ったから、出来たときは感無量だったよ」と往時をしのぶ。当時にして、約400万クルザードの募金額が集められたという。
吉村さんによれば、当時はマリンガ、ロンドリーナ文協の会館が非常に評判がよく、会館設計にあたっては4、5人で視察に訪れた。「マリンガの会館を見て、非常に気に入った。会員は多くないから小さめだけど、ここは熱いから天井はさらに一メートル高くして、窓もつけている。建築士も無償で設計してくれたし、皆の力で出来た会館なんだ」と秘話を語った。
帰伯子弟が活性化の旗手に=大きな期待背負う清心太鼓
現在、ドラセーナ文化体育協会の活動の中でも、成長著しいのが太鼓部「清心太鼓」だ。現在、デカセギ帰国子弟を中心とした10~28歳の40人の部員を抱え、週に6日も稽古に励んでいる。
11年1月に発足したばかりの太鼓部だが、15年の「第13回全伯太鼓大会」のミリンの部で優勝。その部員が成長し、今年の大会ではジュニアの部で見事優勝を果たした。来年は日本の全国大会に出場するため、現在、遠征資金を調達するために文協全体で募金活動を行っている。
太鼓部の発起人となった岡本英樹元会長(79、二世)は「太鼓部がデカセギ子弟らの受け皿となり、会館に若者が通いだすようになった。今では、大人になった部員が子供を教える側に回っている」と話し、妻・晴恵(73、二世)さんも「こまいのが可愛いのよね。昔は小さかった子供も今では立派な青年になった。会も若い世代に繋いでいかないとね」と目を細めた。
太鼓部が創立されてからは、その子供を持つ親も婦人会に参加するようになり、会全体が活性化するようになった。岡本会長は「よい方向に向かっている。これをさらに強化するためにも、JICAボランティアの派遣もお願いしていきたい」と期待を語った。