今年、リベルダーデで一番賑やかだった街頭の打ち上げ花火は、サッカーW杯ではなく、ジャイール・ボルソナロの当選だった。
半年前、支持率トップでありながらも、大半の国民からは「どうせ本命ではない」と期待を込めて思われていた人物が、最後までトップを保った。
本人もグローボ局の番組ファンタスチコで当選の弁として、「ジウマが大統領に再選した4年前、次はオレが大統領にならないとブラジルがダメになると思った。だが周りの誰もが本気にしなかった。大政党から出馬するのはムリ、連立政党もナシ、選挙助成金もナシ、テレビ政見放送も数秒、大メディアからは批判されっぱなし」としみじみ語っていた。
そんな徒手空拳の泡沫候補がたった4年間で、約5700万人から票を集めて大統領になるというのは空前絶後だ。
54年ぶりに〃時代の振り子〃が右に振れ始めた。前回1964年は軍事クーデターによって、強引に右に振らされた。だが今回は選挙という民主的な手続きによって右に変わった。ブラジルの民主主義がそれだけ成熟したといえるのかもしれない。
ただし、テクノロジーの進歩によって生じた民主主義の隙間「デジタル空間」で起きたクーデターかも、という気もする点が少々気がかりだ。
▼1945年、軍がクーデターで独裁政権を終わらせた時代
時代の振り子が右に振れた「今」という時代は、過去のいつ頃に似ているか――そんな視点で歴史を振り返ってみたら、「1964年前夜ではないか」と気付いた。軍事クーデターが起きたあの年だ。戦後移民の大半が渡って来た後の出来事だから、覚えている人は多い。
では「右」に振れるときに、何がその基準になるかといえば、ブラジルの場合は軍部のようだ。何をキッカケに右に振れ始めるかといえば、「政権の汚職」と「不況」などだ。それが蔓延するのは、大衆迎合主義的な左派政権の時代に多い。
例えば「ポプリズモ時代」(1945年~1964年)だ。
戦前に新国家体制を作った独裁者ヴァルガスは、45年10月の軍クーデターによって失脚させられた。ブラジルの場合、必ずしも「軍=独裁」ではない。
45年12月に行われた選挙で、ドゥトラ陸軍元帥(ヴァルガス政権の戦争大臣)が当選し、軍を主体とした右派勢力が1946年憲法を制定して独裁体制からの民主化を図った。初めて三権分立と大統領直接選挙を定めた民主憲法だった。
興味深いことにその民主体制下、ブラジル史上初めて国民の直接選挙(1950年12月)で大統領に選ばれたのは、かつて独裁者だったヴァルガス(PSD、PTB)。左派勢力の勝利だった。
▼1951年、大衆迎合的な左派路線を作ったヴァルガス
この時代に軍部が国民から一定の支持を得ていたのは、金持ちの子どもしか教育が受けられなかった戦前、軍学校(Colégio Militar)は庶民の優秀な青年が唯一、高等教育を受けられる機会を提供していたからだ。
日本の戦前の陸軍幼年学校も同様で、庶民の子どもが当時最も整備された教育を受けられる機会を提供し、国家的な視野を育んでいた。
ブラジルでは青年将校による政治改革を求める運動を「テネンチズモ」と言った。戦後、日本移民の子供が陸軍学校や軍警学校にたくさん入学したのは、私学の費用が負担できなかったからだ。
ヴァルガスは大衆迎合的な左翼ナショナリズム路線を強め、経済の国民化を訴えた。だが、権威的な政権運営や共産党との密接化を嫌って保守派からの批判が高まり、軍が彼を見限ったことにより1954年8月25日に自殺した。
だが左派路線は続いた。ヴァルガスと同じ党派から1955年の大統領選挙でジュセリーノ・クビシェッキ(JK)が当選。新首都ブラジリアを建設した反面、莫大な財政出動政策により対外債務の膨張と財政赤字を招き、悪性ハイパー・インフレの要因を作った。この辺の支出拡大バラマキ路線による財政赤字化が、近年のPT時代に似ている。
1960年の大統領選挙の頃は、大統領と副大統領は別々に投票して選んでいた。だから、大統領にはヴァルガスのライバル党派から都市中間層の支持を背景にジャニオ・クアドロスが勝利した。だが、副にはヴァルガス派からジョアン・ゴラール(愛称ジャンゴ)が選ばれた。
61年にクアドロスが大統領に就任すると、JKの残した赤字処理に緊縮財政をとり、国民の不満を招いた。しかし、彼は同年8月に突如辞任し、副大統領だったゴラールが昇格した。
クアドロスが辞任したとき左派ゴラールは中国を訪問中だった。民衆から親しまれ、左翼的傾向が強いゴラールの大統領就任を軍部は認められず、全力で阻止しようとした。だが軍部の企ては失敗し、大統領の権限を縮小する妥協をへて1961年9月にゴラールは就任した。
就任後もインフレはますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。右派は退陣を要求し、ゴラールの公約である農地改革などの社会改革に反対した。行き詰まったゴラールは国民投票に訴えようとしたが、64年3月31日に右派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実行した。
新聞は「クーデター」と表現するが、軍学校では今でも「革命」と教えている。
この時、後ろ盾になったのは、南米の共産主義化を恐れていた米国だ。米海軍の空母を含む艦隊がリオ沖で演習を行い、軍クーデターがうまく行かなかった時に介入する意向を示していたと言われる。
▼1964年、軍事独裁・右派の時代
ここから右派による「軍事独裁政権時代」(1964年-1985年)が始まる。ここで過去起きたことが、今後起きることの参考になる可能性がある。
4月にカステロ・ブランコ将軍が大統領に就任し、外資導入を進める「経済活動三カ年計画」を発表し、インフレ抑制のための「緊縮財政」や「国営企業の民間への払い下げ」「公務員の縮小」「福祉予算の減少」などを行った。
これはボルソナロが政策として掲げている点とほぼ一致する。
最低賃金を常にインフレ以上に上げようとする左派とは逆に、軍政は強権によって最低賃金を抑え、積極的な外国資本導入と相まって「ブラジルの奇跡」と呼ばれる年率10%の高度経済成長を達成した。
これが、来年からの財相と目されるゲデスが目指す方向性だろうし、ボルソナロの支持率が上がるたびに株価を上げるような国際的資本家が期待しているところだろう。
64年のクーデターの時、軍部を始め、国民の多くは「数年で民主化される」と漠然と思っていた。終戦直後のヴァルガス失脚時の印象が強かったからだ。だが実際には21年も続いた。
しかもクーデター翌年の65年10月の地方選挙で左派が圧勝したため、ブランコ大統領は強硬路線に転向して戒厳令を敷き、国会や地方議会を解散させ、翼賛体制を樹立した。この辺から左派弾圧が徹底化され、学生運動や活動家の締め付け、果ては拷問まで行われるようになった。
また軍政時代に貧富の差が拡大し、地方部の集約大規模農業が進んで土地の独占が進展し、追い出された小農が都市部に溢れ、郊外にファヴェーラを続々と作り、景気悪化と共に激増する犯罪の原因を作ったと言われる。
▼1985年、民政移管して再び左派路線に
その後、「大統領直接選挙の請求運動(ジレッタス・ジャー!)」や組合活動などを通して左派活動が国民の支持を得るようになり、85年に民政移管された。そこから中道の時代となり、2003年からのPT政権13年間が、ブラジル政治の振り子が一番左側に振れた時代に入った。
この時期には大衆迎合的な部分が強かったとしても、国民の支持を得た政策がいくつも打ち出された。自力というよりは、リーマンショック以前の世界の好景気によって引っ張り上げられ、ブラジルもバブル景気を味わった。
しかしバラマキ政策で財政破綻に陥り、財政責任法を問われて、ジウマ大統領は2年前に罷免された。副大統領だったテメルが昇格したあたりから、振り子は左から中央に戻り始めた。
そして、今回のボルソナロの勝利で、軍政が終結した85年以来、初めて振り子が右の領域に入った感じだ。
▼2018年、再び右の時代に
ただし前回、時代の振り子が右に振れた64年は、軍事クーデターによって強制的に右に振らされた。だが今回は、あくまで民主主義の範囲内で行われた点が大きく異なる。
とはいえ「デジタル空間のクーデター」ともいうべき、ワッツアップやフェイスブックを使った選挙活動が繰り広げられた。今回から許可されたばかりの未開拓領域での選挙合戦だけに、フェイクニュースが飛び交い、違法すれすれ、もしくは違法そのものの行為すらあったようだ。
いわば「テクノロジーの進歩によって生まれた民主主義の隙」を利用して、ムリヤリ結果を左右した感がある。そこに「デジタル空間のクーデター的」な印象を受ける。
だが、軍の意向を強く含んでいるとはいえ、ボルソナロは民主的な選挙という方法で選ばれた。民主主義である以上、不本意ではあっても選挙結果は尊重しなければならない。
とはいえ軍政時代は、実は日系社会と相性のいい時代でもあった。今でも「あの時代は治安が良かった」と懐かしむ声は多い。
たとえば軍政時代には、連立政党ボスに大臣職を振り分けるというトマ・ラ・ダ・カー的習慣がなく、純粋にその道の専門家にやらせていた。だから、日系大臣が一番多かったのは、文句なしに軍政時代だ。安田ファビオ商工大臣、続正剛保健大臣、植木茂彬鉱山動力大臣など。
とはいえ骨のある日系政治家、例えば田村幸重連邦下議などは悪名高い治安維持法「AI―5」に真正面から反対して、軍政から議席剥奪された。さらに特高警察DOI―CODEに逮捕されて拷問、殺された日系活動家や学生も何人もいた。悲しい時代だった。
今回は選挙という民主的な方法で選ばれており、今後も独裁政権化やクーデターは許されない。
▼2年後の地方選挙から4年後に緊張高まる?
ボルソナロが勝った今というタイミングは、実は社会的対立の緊張はあまり高くない。本格的に左派対右派という緊張が高まるのは、2年後の地方選挙の時からではないか。
というのも、ボルソナロの公約には痛みの伴う内容が多い。年金改革や公務員の大幅削減を伴う官庁半減、公社民営化などは、国民の反発を呼びやすい政策だ。矢継ぎ早に実施できたとしても、4年後の選挙まで今の人気を維持できる可能性は高くない。
64年クーデターの翌年の地方選挙では、左派が圧勝した。その結果、軍部は戒厳令を出し、一気に弾圧を強めて非人道的な「AI―5」令発布につながった。
ボルソナロ内閣の軍人が2年後の選挙結果に不満を持ち、議会閉鎖、憲法停止などの非民主的な手段をとるような緊張感が高まることが心配される。
4年間でいい結果を示せなければ、次の選挙では「揺り返し」が来る可能性が高い。〃時代の振り子〃が左に戻る。そうなれば、今回健闘したハダジの出番だ。
とはいえ、4年後に大統領選挙ができることが一番大事だ。そのときに右を維持しようが、左に振れようが、法治国家の範囲内であり、ブラジル国民の民主主義の成熟を示すものとなる。
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ブラジルの近代史は、振り子のようにせわしなく右と左を行き来している。若い国だからだろうか、常にダイナミックに大きく振れる。
でも、国が成熟するとともに、その振れが徐々に幅を狭め、真
ん中付近で小さく振れるようになるような気がする。それが本来の「ブラジル」という国の位置だ。今はまだ大きく振れている最中のように思える。
はやくもっと中道あたりで落ち着いて欲しい――そう願う国民は多いはずだ。(深)