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ホーロー鍋からピラルクーへ、頼もしい60歳

17キロぐらいの成魚を見せる江尻さん(右)

17キロぐらいの成魚を見せる江尻さん(右)

 ビニールハウスのような養殖場に入ると、一瞬息が詰まるぐらいムッとし、眼鏡とカメラのレンズが曇った。きけば内部温度は37度以上に保たれているという。
 ここは江尻龍之介さん(60、愛知県)が経営するピラルクー養殖場だ。サンパウロ市から南西に127キロのミラカツー市にある。
 ピラルクーといえば巨大なアロワナで、アマゾン河の魚市場でよく見る。大きなものは3メートルにもなり、世界最大級の淡水魚の一つ。
 1億年前からほとんど姿が変わっていない「生きた化石」とも言われ、日本では水族館に行かないと見られない。まして、食べる機会などないだろう。でもブラジルでは違う。

江尻さんが餌を投げると、大口をあげた魚の群が水面に現れた

江尻さんが餌を投げると、大口をあげた魚の群が水面に現れた

 江尻さんが養殖池に餌をバラバラとまくと、それまで静寂を保って波紋一つなかった水面に異変が起きた。1メートルは有りそうな紺色の鯉に似た大口の魚が群を成して水面から姿を現し、乱舞しながら餌を食べ始めた。出荷時の成魚は15~20キロにもなるという。
 岐阜県人会のレジストロ中津川姉妹都市提携38周年慶祝団に加わり、往路の途中に立ち寄った。
 県人会の長屋充良会長は、現役のカイロプラクター(手技療法士)、理学療法士で、その長年のクライアントが江尻さんだとか。その縁で今回初訪問。「噂には聞いていたけど、こんな立派な養殖場をやっているとは」と長屋さんは感心した様子。

左から長屋さん、江尻さん

左から長屋さん、江尻さん

 江尻さんは1978年に渡伯し、元々はグアルーリョス市でホーロー鍋の製造販売していた。父親が愛知県でホーロー鍋を作る会社を経営しており、「ブラジルでも」という構想があり、江尻さんと伯父が渡伯して「マイ・アガタ社」を起業した。
 江尻さんは大学に入学していたが、「どうせ遊んで4年間過ごすならブラジルへ行って自分を試したかった」と決断した。ホーロー鍋製造には色々な難しい工程があり、日本ではそれぞれ専門の会社がある。ところがブラジルでは全ての工程を自分でやらねばならず、大変な技術力が必要とされた。
 江尻さんは「最初は売れて売れて困るぐらい。ブラジル人はキレイだって言って、居間に飾るために買っていくんだ」。でも中国製が席巻するご時世となり、1999年に生産中止。日本ですら数年前からほとんどなくなったという。
 そんな折り、有望な新事業を探していたとき、まったく畑違いのピラルクー養殖に着目した。
 江尻さんは「ピラルクー養殖は技術が難しいから、大手がやらない。僕らのような新参者が参入するには、隙間を狙うしかない。それに、あの難しいホーロー鍋の製造に比べたら、こっちの方が簡単、簡単」と笑い飛ばした。一世ながらポ語が達者で、まるで二世のようにしゃべる。
 年に2回、10センチ程度の稚魚をロンドニア州まで車で買い付けに行くという。「だいたい3千キロあるから、毎日15時間も運転して1千キロ飛ばす」というからすごい。今年2月に買ってきた稚魚が、今ようやく2~3キロだという。かなりの専門知識が必要な上、手間がかかる仕事だ。

ブラジル岐阜県人会の一行と記念撮影

ブラジル岐阜県人会の一行と記念撮影

 起業後10年経った今、年間1千匹を出荷するまでに成長した。主な取引先を尋ねると、ブラジル1、2位を争う超有名レストラン『D.O.M.』や、同店のアレックス・アタラが同じく料理長をつとめる姉妹店『ダウヴァ・エ・ジット』をはじめ、『トルデジーリャス』『ビストロ・デ・パリス』『モコト』など一流レストラン名がぞろぞろ出てきた。
 2013年7月13日付け本紙では、そのアレックス・アタラがミラカツーで、地元老人ホームの増築工事費用捻出ためにガリニャーダ(鶏肉スープ)を500人分作ってふるまい、売り上げを全額寄付した記事を掲載した。
 この時に、老人ホームのために動いたのが江尻さんだった。有名シェフの坂本淳からアタラを紹介された。
 「フィレをアタラに見せたら、真剣な表情で『本当にこんなのが納品できるの?』と真顔で聞いてきた。『もちろんさ』と応えると、『じゃあ試しに4週間、毎週10匹持ってきてくれ』と言われ、その通りに納めた。それで気に入ってもらえたみたいだ」との裏話を語った。
 戦後移民の最後は一般的に1973年といわれる。3月に〃最後の移民船「にっぽん丸」〃が到着し、以後、飛行機移民になるからだ。というのも60年代から日本は経済復興し、移民は激減。江尻さんのように78年渡伯というのは極めて珍しい。
 思えば、岐阜県人会長の長屋さんも82年渡伯の同年代だ。戦後移民の平均年齢が80歳前後といわれる現在、非常に稀な人材だ。この世代はただ単に数が少なくて貴重なだけでなく、それゆえに、えり抜きの人材が来ているのかもと頼もしく思った。(深)

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