終戦後、曾祖母・マスヨさんと母・美喜枝さんの2人となっていた日野本家。そこに襲いかかったのが、占領軍統治下の農地改革だった。日野さんによれば「嫡男である祖父・信夫も不在のなか、女2人では所有地の全てが没収される可能性すらあった」と話す。
そのため、美喜枝さんの縁談が急ぎで進められ、父・覚さんが婿養子として日野家を継いだ。覚さんが奔走し何とか難を逃れたものの、「残されたのは住む家くらいなものだった」という。
結婚後、美喜枝さんは教職を離れ、土地を売却して町で商店を始めた。だが、太平洋戦争中軍人だった覚さんはC級戦犯の裁きを受けており、10年間は市民権を剥奪され、一般的な職に就けない状態だった。
こうした戦後の境遇が覚さんに重くのしかかり、「狭い日本には住みたくない。ブラジルの新天地で一旗上げたい」との意思を強めるように。
日野さんによれば「母は4歳で両親と離ればなれになり、親の顔も覚えていない。それに5人の子供の教育を考えればブラジルに行きたくなかった。でも、父の意向には従わざるを得なかった」という。こうして56年に一家は海を渡った。
その後、祖父・信夫さんを頼りに、パウリスタ線の奥地のジュンケイロポリスに入植。58年に信夫さんが持っていたジャーレスの土地を購入し、叔母一家とともに同地の協和植民地に転住した。それ以降の話は、第2回で掲載した通りだ。
教育熱心だった美喜枝さんは、植民地の日曜学校で子供たちに日語を教えた。そんな薫陶を受けて苦学した日野さんは、最終的にはサンパウロ州教育局に務めた。今でもブラジル日本語センター教育副理事長を務めるなど、教育分野で貢献している。
故郷巡りの後、日野さんはレジーナさんと連絡を取りはじめ、埋もれていた歴史が少しずつ明らかとなってきた。
1912年の第3回移民船「巌島丸」で渡伯した千次郎さん一家は、モジアナ線ズモン耕地を経て、15年10月にビリグイ植民地ツピー区に入植。その後、プロミッソンに転住した。
隣町アヴァニャンダーバのカスカチンニヤ区とアンドラジーナのブリチ耕地で珈琲・牧畜農場経営で成功し、戦後56年に連絡機関として発足したプロミッソン文化日本人会の初代会長を務めるなど、当時のプロミッソンの中心人物だったと見られる。
日野さんは「祖父がブラジルに渡って、プロミッソンの千次郎さんの農園で働いたらしいということは聞いていたが、その家族がどこに居るのか全く分からなかった」と話し、「今年は祖父の移住から90年になる。家族史を書き上げて刊行したところで、まさかこの年に日野家の親戚関係が浮かびあがるとは夢にも思わなかった」と夢見心地で語った。
先月12日、日野家移住90周年を祝って約100人が参加するなか、故郷巡りの逸話が披露され、親族を驚かせた。祖父同士の話からブラジル移住の道が開かれ、その後別々に歩みをたどるも、孫の代となって相まみえた両家。故郷巡りをきっかけに、一世紀を経て両家の間に再び交流が生まれつつある。(続く、大澤航平記者)