水上公園を後にした一行は、ホテルで休憩を挟んだ後、最後の訪問地となるビリグイ日伯文化協会の歓迎夕食会に向かった。一行が到着すると、入口では会員が一列となり一人一人に握手で歓迎。ノロエステ連合日伯文化協会の安永信一会長の姿もあり、柔和な表情を浮かべて一行をもてなしていた。
安永会長は、プロミッソン安永家の一人で、市議を9期務めた父・伯雄さんの四男。07年から2年間ビリグイ文協会長、16年から同連合会長を務めており、今年の眞子内親王殿下ノロエステご訪問に東奔西走した立役者だ。
会館に入ると、水上公園に行かずに同市を一足早く訪れ、会館で待機していた参加者の姿も。ビリグイに住んでいた横田宏子さん(83、二世)は、夫・進さんと従姉妹の白川和子さん(82、二世)、秋山紀代子さん(78、二世)夫妻とともに初めて故郷巡りに参加し、従姉妹の自宅を訪れていたという。
宏子さん、和子さん、紀代子さんは奇遇にも2月11日の紀元節生まれ。3人は戦後45年から3年間、共に暮らしていたことがあるという。理由を聞くと、紀代子さんが「もう昔の事だから話してもいいわよね」と問いかけ、一瞬置いた後に、宏子さんは滔々と語り始めた。
宏子さんによれば、父・元助さんは勝組過激分子だった特行隊のうちの一人。「志願兵としてシベリア出兵に加わり、鉄砲の名手として恐れられていた。戦後の勝負抗争で政治警察の迫害から逃れるため、パラナ州アサイーに単身で雲隠れした」という。
戦中に日語を教えていた母も、何者かの密告によりアラサツーバの留置所で3カ月の間、拘留された。「当時、勝負で拘留された女性は殆どいなかった。だから、女性部屋もなく、母は通路に寝かされた」と証言する。
つまり、勝負抗争で両親と切り離され、身を寄せたのが叔父の家だったわけだ。
その後、両親とともにパラナ州で暮らすようになったが、「母は日本が負けたと分かっていても、決して口にすることはなかった。お父さんが『日本は勝った』といえば、それ以上何かを口にすることはなかった」と往時を振り返った。
その話を聞いていた紀代子さんは「子供の頃は日本人だからといって馬鹿にされ、何度も悔しい思いをした。だからこそ負けてたまるかと思ったし、日本人は素晴らしい民族だっていうところ見せたかった。だから、今までがむしゃらに働いてきたの」と話す。
「定年退職して8年になるけど、今までこんなツアーがあるとは知らなかった。故郷を訪れて、『ふるさと』を歌うのは胸が熱くなるわ」と感慨深げ。「もう移民一世はいなくなった。だから、その世代を知る私達が日本人の価値観を次世代に大切に伝えていかなくては」と思いを新たにしたようだった。(つづく、大澤航平記者)