はじめに寄港するのはシンガポールで、船はずっと南西にむけて舵をとりつづけ、すでに出港から3週間が過ぎようとしていた。この貨物船の状態を少しでも耳にしていたら(あるいは日伯両政府は情報不足だったのかもしれないが)、若狭丸の航海中に起きたことに驚きはしなかっただろう。むしろ、問題が起きるのが遅かったことに驚いたはずだ。10年前、日本人のブラジル移住がはじまって以来、このような事件は記録されたことがなかった。もっとも、それに似たスケールの小さい事件はあったはずではあるが。
それはブラジルに移民をのせていく若狭丸の6回目の航海のことだった。
船籍は日本郵船会社(NYK)で、会社は58隻の船を所有し、総数6万6000トンにもなるという。社主は旧土佐藩士の岩崎弥太郎で、廃藩置県の自藩解体のおりに、同業の小さな船会社を買収・併合し大きな会社にした実業家だ。
そのご短期間に三菱という名の商船会社を創立し一躍有名になった人物である。日本郵船会社の正式の創立は1885年だが、そのころ岩崎はすでに海外の貿易航路を有し、先行の貿易会社と同じように政府から利益を保証されていた。また郵便物、その他に関しても確実な保障を受け、政府から定期的に助成金も受けていた。その見返り条件として会社の運営や航路選択は政府の監督下におかれるというものだった。
当時海外との取引に使われるのは古い貨物船というのが常識であったから、若狭丸も例外でなく古かった。ブラジルから日本に向かう往路はコーヒー豆を満載し、ブラジルに向かう帰路は空荷にしないために、移民を運んでいたのである。したがって船は最悪で、鉄くずとして放棄されてもおかしくないほど朽ちはてた状態だった。
船体は6000トンで、ベッドも宿泊用品もない船底いっぱいに移民たちが押しこまれていた。そこに積まれていた荷物の臭い、コーヒーの臭いは航海中でもずっと消えることはなかったが、最悪というほどのものでもない。
大人ひとりの空間はゴザが一枚敷ける90センチ×180センチで、およそ2ヵ月の航海中はそこで寝起きした。けれども、13歳になったばかりの正輝には、子どもとして半分の空間しか許されず、寝ることはできたが起きるとき、下になった片側の腰骨、肩、腕がひどく痛んだ。痩せていたからだ。狭い場所で人に迷惑をかけずに体を伸ばすなど不可能だった。そんなことをすれば、となりの人を押すことになり、しかり飛ばされるか、押し返されるのだった。
けれども、正輝は文句ひとつ漏らさなかった。もっと小さい子どもは母親に抱かれたままねていたのだから…だれひとり心地よく眠れる者などいなかったのだ。男も女も大人も子どもも貨物船の船底に敷かれたゴザの上で、すし詰め状態で寝ていた。
正輝と叔父たちは使い慣れた沖縄弁で話せたのが、せめてもの幸いといわねばならない。移民たちは出身の県別に分けられていた。1917年、ブラジルむけ移民が再開されたが、移民全体の数字からみても沖縄県人が圧倒的に多かった。
前年の若狭丸5回目の航路のおりには、1579人中、1235人が沖縄出身者だったが、この6回目の航海は神戸を出港した1800人中、768人が沖縄県人だ。そして、2番目に移民が多かったのは鹿児島県で336人。沖縄県人の約半数にあたる。
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