先週、「リベルダーデ区の建設現場から帝政時代の奴隷の人骨が発見された」とグローボTV局をはじめ、伯字メディアが盛んに報じた。ガルボン・ブエノ街の建物を取り崩し、商業ビルを建築するために地下を掘っていたら7体の人骨が出てきたという。
リベルダーデ(自由)広場の名前の由来が、「絞首刑台があったから」というのは皆知っているとばかり思っていた。ニュースになったことを思えば、意外とブラジル人も知らないようだ。「あの世で自由になれ」という意味が含まれているらしい。
植民地時代、帝政時代にカトリック共同体から尊重された人は、セー大聖堂周辺や内部に埋葬された。リベルダーデに葬られたのは主に罪人や奴隷だった。その歴史を読んだとき、この付近は一種の「化外の地」もしくは「忌み地」だったのだなと感じた。
北向きのセー大聖堂にとって、南側にあるリベルダーデは暗い影の地、裏側だ。今でも地方都市に行くと、神聖なる教会の表側は門前町だが、裏側に行くと売春宿などがあるイカガワシイ地区、もしくは庶民的な地区になることが多い。
サンパウロ市が町になりはじめたのは18世紀と言われる。1810年頃の地図を見ると一目瞭然だが、セー大聖堂からサンベント修道院に至る高台が宗教都市になっている。
ここは周りをタマンドゥアテイー川とアニャンガバウー川に囲まれた高台の地形で、1600年代当時、インディオからの襲撃を避けるには絶好の場所として都市化された。
サンビセンチから陸路を上がって来たアンシェッタ神父らが1554年1月25日に、最初に儀式を行った場所パチオ・ド・コレジオ。その裏庭に行くと、かつてタマンドゥアテイー河畔の湿地帯だった低地が視界に広がる。今ならメルカード・ムニシパルが望める。1600年当時はインディオの襲撃を見張るに絶好の場所だった。
1895年のサンパウロ市人口は13万人で、うち7万1千人が外国人移民だった。つまり生粋のブラジル人はたった6万人。それから123年で今の1217万人、ほぼ100倍に増えたわけだ。
教会の裏でさらして、首をつり、埋葬する
大戦前後まではセー周辺がサンパウロの中心地であり、いわゆる繁華街はサンジョアン街から先のレプブリカ地区周辺、その先のサンタセシリア地区が高級住宅街だった。そちら方面を先に行けば、1800年代にコーヒー大農園が集中していたカンピーナスへ続く道だったからだ。
ただし、弊社のあるグロリア街はかつて「カミーニョ・ド・マール」と呼ばれ、サントス方面へ下る道だった。首都リオに行くには必ず通らなければならない。でも、いったんサンパウロ市に到着した後は、あまり通らない道だったようだ。
1810年の地図をみると現在のリベルダーデ日本広場は「Largo da Forca(首つり広場)」と書いてある。その当時、現在フェーラム・ジョン・メンデスが建っているすぐ横のちょっとした広場Largo Sete de Setembro(9月7日広場)は、その頃Largo Sao Gonsaloと呼ばれ、pelourinhoとして使われていた。これは、言うことを聞かない奴隷や犯罪者を縛り付けてさらし者にする場所のことだ。
ちなみにバイーア州サルバドールのセントロには今もペロウリーニョの名が残り、観光地になっている。
セー大聖堂の裏にあるペロウリーニョでさらし者にされてから、その南側にある首つり広場で処刑され、さらに南側に隣接した墓地に埋められるのが刑執行の流れだった。
ご存知の方も多いだろうが、サンパウロ市はほぼ「南回帰線」上にある。日本などの北半球では、冬至の日(12月22日ごろ)には昼が最も短く、夜が最も長くなる。これは太陽が、サンパウロの真上、南回帰線上にあるためだ。当地ではこの時に、昼が最も長く、夜が最も短くなる。南回帰線は熱帯と温帯の境だと言われる。南回帰線より北は、真上から太陽が当るからだ。当地では太陽は常に、真上もしくは北側から当たる。だからセー大聖堂は北側を向いており、その裏、南側は常に日陰になる。だからそこに処刑場と墓地があった。
2度も縄が切れる奇跡の舞台に
1821年に首吊り広場で有名な〃奇跡〃が起きた。陸軍中尉フランシスコ・ジョゼ・ダス・シャガス(通称「Chaguinhas」)は給与の遅れに抗議して反乱を起こしたかどで捕まり、処刑された。
その際、2度も首を吊った縄が切れたといわれる。処刑を取り巻いてみていた大衆は「神のメッセージだ」だと理解し、「中尉を釈放せよ」と騒ぎ始めた。
困った官憲は結局、棒で殴り殺した(皮の紐で首を絞めて殺されたとの説も)。多くのカトリック信者はこれを〃神意の現れ〃と信じ、その場所に「十字架」を立てた。それがSanta Cruz dos Enforcados(首吊り者の聖十字架)と呼ばれるようになり、そこに同名の教会が建てられた。現在、リベルダーデ大通り脇の広場横に建っている教会がそれだ。
当時、何百人が処刑されたか分からない。だが広場の南側、現在の同教会から東洋会館の当りの幅で、グロリア街ぐらいまでが墓地として使われていた。その中央に建てられた遺族が礼拝する御堂がCapela dos Aflitos(苦悶者たちの礼拝堂)だ。
サンパウロ市の拡大と共に1856年に巨大なコンソラソン墓地が設置され、この墓地は閉鎖された。だが現在も広場からエステダンテ街を下っていくと右手に、行き止まりの街路Rua dos Aflitosが見える。そのドン詰まりにあるのがその礼拝堂で、今も活動を続けている。
来年はミステリードラマの舞台に
首吊り者の聖十字架教会を日本に当てはめれば、江戸幕府が建てた上野の寛永寺に似ている気がする。江戸城から見て表鬼門の北東方向に、鬼門封じのために建てたからだ。そのおひざ元にポップカルチャーの聖地・秋葉原がある。秋葉原が「キバ」と略称され、南米の漫画アニメの聖地リベルダーデが若者から「リバ」と呼ばれるのには、なにか奇縁を感じる。
ちなみに本紙編集部の奥側すぐ裏が、その礼拝堂という位置関係だ。時々、ミサで使うロウソクの匂いがする。本紙の入る日毎ビルはもちろん、池崎商会、丸海、ブエノなども皆、墓地だった。日毎ビル建設時も骨がザクザクでたとの話を聞いたことがある。
だが、その当時は今のように考古学的な価値を尊重しない時代だったから、普通に掘り返して建てただけだ。だから、かつて「編集部で徹夜すると黒人の幽霊が出てくる」とかいう伝説まであった。この礼拝堂は参拝者が減って経営困難になり、建物老朽化で維持が難しくなっているとの伯字紙記事も読んだ。
だが。ネットフリックス・ブラジル社(米国の映像ストリーミング配信事業会社の支社)は9月20日、リベルダーデを舞台にしたミステリードラマのシリーズ「Spectros」を製作し、来年放送すると発表した。「過去に犯された過ちを霊が復讐する」という話らしい。きっとリベルダーデのあちこちで撮影が行われ、そこに黒人奴隷の歴史と、日本移民の話が絡むことは間違いないだろう。
たぶん、勝ち負け抗争や臣道聯盟のことが偏見たっぷりにおどろおどろしく描かれるのではないか。そのドラマ制作を発表した矢先に、今回の人骨発見報道だ。まるで何かに導かれているようではないか。
先住者への敬意、土地の怨念を祀るのは神道の基本
今年は日本移民110周年であると同時に、奇しくも5月13日は奴隷解放宣言130周年だった。
戦後、日本移民がコツコツと祭りごとをこの広場で行い、ここの印象を「忌み地」から「愛される地」へとガラッと変えてきた。そして「リベルダーデ日本広場」に改名したのも今年の7月18日だ。日本移民側としても、地名に対して敬意を払うためには、今回記したような歴史を知ることは大事だ。
ならば、年末の餅つきの折などで神道のお祓いをする機会に、ここで絞首刑にされた人たちの霊も慰めたらいいのではないか。ちなみに今年は上塚周平植民地入植100周年でもあった。あそこには「ボーグレ神社」があったと聞く。先住インディオのボーグレ族の墓所を祀るために作った。おそらくブラジル最初の神社だ。かくのごとく、日本移民はその土地の霊を慰めることを習いとしてきた。
だいたい出雲大社創建の由来も日本神話にこのように出てくる。大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った(『古事記』)。
先住神であった大国主神は、出雲大社に祀られることを条件に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫に国を譲った。その天照大御神を祖神とするのが皇室と言われる。土地神(とちがみ)や先住者への敬意、その土地に込められた怨念を祀ることは、神道の基本ともいえそうだ。
ならば、リベルダーデでもこの土地ゆかりの霊を慰める慰霊祭も悪くない。もしくは、4年後のブラジル独立200周年を記念して、黒人奴隷やシャギーニャの逸話を含んだモニュメントを建てるのも一興だ。それが「リベルダーデ」という地名をレスペイトすることになる気がする。(深)