正輝の父、忠道の怒りは当然だが、鹿児島の支配下にいるのがいいという意見だった。この新しい県の行政を司る人間、それは絶対に優秀な薩摩の旧藩士で、沖縄をよくしる現在の鹿児島県人でなくてはならなかったのだ。それが政治家であれ、軍人であれそしてまたは平民であれ。
1892年、天皇から男爵の称号を受けた尊大な旧薩摩武士、奈良原繁(ならはらしげる)が8番目の沖縄県知事に任命された。政府は奈良原が薩摩に服従心をいだく沖縄が一県として変わっていくのをみて、彼なら断固たる行政を成し遂げると分っていたのだ。奈良原男爵は強引なやり方で、経済的、社会的、教育的水準を日本の他県に近い状態にしようと、15年にわたる沖縄の県政にのぞんだ。彼の大きな使命は超スピードで再生された日本のように沖縄を本質的に生まれ変わらせようとした。
1895年前後に、大規模な農地改革を行わないかぎり、沖縄の発展は望めないことが明確になり、1898年、所有地改革法のための役所が設けられた。
沖縄には共有地というものがある。共有地から上がる利益は住民のものだという不文律があり、それが面積の75%を占めていた。新政府はその共有地を個人に割りあて、そこから入る税金を県政の資金にまわすという大胆な施策を打ち出した。
沖縄の政治的、経済的行政のなかで、尚泰が王位を剥奪されてから戦後1945年アメリカ軍が介入するまでの期間が、最も変貌の激しかった時期といえる。
所有地改革法は1899年から1903年の間に施行された。封建制度の共有地の収穫物で収めるという方法から、まとめてお金で税金を払うという方法に変わったのだ。教育改革も奈良原の関心事だった。まず手始めにしたのは那覇港の増築、沖縄初の新聞社の創立、沖縄農工業銀行、砂糖改良事務局の設立などだった。強引なやり方から「琉球王」とよばれた。男爵の称号をあたえたられた奈良原繁が今日の沖縄の基盤をつくり上げたことになる。
短期間の大改革はそれまでの島民の生活を根本から揺るがすことになった。地域の代表者は島の一体化をはかろうとして、そしてまた、住民に直接かかわりのある問題は沖縄人と深い関係にある人に委託すべきだと考え、善意から奈良原に尚泰と代わってもらえないかと申しでた。尚泰は元琉球藩主として、華族の称号を得ていた。
ところが東京の中央政権はこれを沖縄を元の琉球王国に戻そうとしていると解釈し、案を握りつぶしてしまい、沖縄の経済は鹿児島と大阪の商人に牛耳られることになってしまったのである。
さらに、日本の県であるにもかかわらず沖縄県は当時、国会に代表を送る権利を与えられていなかった。地方知事制度を得たのは1920年になってからだった。政府は県の代表者は受け入れないばかりか、この新しい県に対しなんら税金に比例する恩恵を与えるどころか、次々に税率をつり上げていった。たとえば、1882年、明治政府は徴収した税の70%以下しか沖縄の公共費に当てなかった。残りは中央政府の懐に入れてしまった。沖縄は政府から「県で消費されないものを生産させられ、生産されないものを消費させられた」という。植民地同様に扱われていたのだ。
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