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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(21)

 日露戦争は1904年2月10日、にはじまった。対戦は朝鮮と中国の地で、海上では日本と朝鮮の間の対馬海峡で火蓋がきられた。ロシア軍は朝鮮を侵略した。日本海軍はロシアの手中にあった旅順を攻めた。地上では日本陸軍はまず、中国の遼東半島を、そして3ヵ月で旅順を手にした。日本軍は遼東半島からロシア軍を北へ北へと撤退させていった。最終的勝利は1905年2月から3月にかけての奉天での戦闘で、40万近い兵士が戦った。
 地上戦がむりだとさとったロシアは作戦をかえ、海から攻めようとバルチック艦隊を出動させた。ウラジオストクで待機する日本海軍を避けようと、地球を半周りかけてやってきたバルチック艦隊は1905年5月27日、対馬海峡でおこなわれた日本海軍との対戦で壊滅状態となった。
 朝鮮の占領問題はこれで危機を脱し、(1905年11月朝鮮は日本の保護領となった。ロシアが手にした満州の南方は日本の手に移された。鉄道や遼東半島も付随していた)その上、北海道の北東にあるサハリン島の半分を提供した。明治政府は、ナポレオン軍でも制御できなかったロシアを敗北させた強国が日本だと世界中に喧伝した。何年も愛国主義を叩きこまれてきた国民にとって、これ以上誉れ高いことがまたとあるだろうか。

 正輝は激動の明治政府の時代の落とし子といえる。
 それは国の政治、経済だけにかぎらない。農民の家族、特に、日常生活にまでおよんだ。いままで特殊階級だけに許されていた勉学の権利を得た。いや、それどころか義務となったのだ。島の教育機関が広まった奈良原知事時代、新城の小学校ができたおかげで、正輝は小さいときから読み書きができ、子どもなりに明治政府が国民に課した「お上を尊重する」という意味が分かっていた。それが彼を「天皇の民」にさせていった。
 ただ、彼も家族も本質的に自分たちは沖縄人(ウチナーチュ)だと認識していたが…明治政府が掲げていた「日本人化」に、沖縄のではどうしてもやりとげられなかったことがあった。それは言葉の問題だ。目的は沖縄の方言つまり、ウチナーグチを廃止し、正式には「標準語」といい、俗には「普通語」とよばれる言葉に変えさせることだった。正輝は標準語で話したり書いたりすることができたが、家族や新城の友だちと話すときは方言を使った。
 政府がやりとげられなかったのは内地の人たちから「野蛮な習慣」といわれた家庭内の習慣だった。家では正輝はほかの沖縄人とまったく変わらない生活をしていた。宗教に関することも何世紀も前から沖縄の農村の先祖伝来のやりかたに従っていた。毎日、家の仏壇の前に座り、ご先祖さまに祈る。
(沖縄の宗教ではこれらのご先祖さまが生きている人を守り、導いてくださると信じていた)。ご先祖さまを喜ばし、食していただくために生きている者は仏壇に供物を捧げなければならないと沖縄人は信じていた。それに応えてご先祖さまはこの世に生きるものに助言や預言をユタを通して与えてくださる。
 ユタの活動は政府から禁止されてはいたが、一族はみな、ユタを通して先祖の言葉を受けていた。正輝の家族もその一家だった。たびたび、母タルに連れられ、生まれた村のユタの家(アラグスク ヌ ユタ ヌ ヤー)を訪れた。ユタはときには儀式をしっかり守るよう忠告することがあった。