ときには、ご先祖さまは家族が抱えている問題はすべて見通しで、家族の対応はその問題に即しているからそのままつづけるようといって、みんなを安心させた。
学校では当時の他地方の日本人の子どもと同じように、天皇制の重要性をならい、まず、天皇の神性を浸透させるために天皇崇拝が欠かさずおこなわれた。
天皇制政府は八世紀にはじめて日本の言葉で書かれた古事記(712年)と日本書紀(720年)の話を歴史教育にとりいれた。そこには天皇は神の子孫であることが書かれている。国の起りについてはこの当時から教科書に入れることが禁止された。
日本書紀によれば、日本の地はイザナミとイザナギの夫婦によって創られた。その夫婦の間に太陽の神、天照大神が生まれた。この女神は海の神、すざのおスザノオとの争いに勝ち、父母の造った国を治めるようになった。その後、オオミノカミは孫のニニギノミコト(カムヤマトイワレビコ)を九州の高千穂につかわされた。この孫が日本国を治めるようになり、神武天皇と名乗られた。この神武天皇の時代からが教科書に書かれている。占星術の計算に基づいて、編史家は神武天皇が日本統治を始めたのは紀元前660年2月11日と割り出した。天皇勅令により1873年2月11日が「紀元節」という祝日に設定された。
毎朝、政輝はほかの生徒たちと学校で教えられた神の子孫である天皇の肖像画の前で最敬礼をするために集まった。「天皇陛下万歳!」と声をそろえていった。「万歳」は一万年という意味があった。行事のときには、教育勅語を声をそろえてくり返した。子どもの政輝は暗記しているものの、何か所かはなにを言っているのか分からなかった。勤勉、勤労を子どもの頭に叩きこむことも、教育方針の一つとされていたのである。
国の文明開化に力をそそぎ、大きな成果をあげた明治天皇の威光は国中にひびきわたった。公的に、組織的に、強制的に広められた天皇は神聖であり、不滅であるという考えは、彼自身がなしとげた業績によってますます尊厳を高め、崇拝に近いものとなっていった。
長い統治期間(1868─1912年)も国民の熱情に拍車をかけていった。政治的、軍事的勝利(1895年の中国、それにつづくロシアとの短期間で完璧な戦勝、アジア大陸への侵攻、1980年、国際条約で政府は満州を経済的に独占、1910年8月22日、朝鮮の日本従属により国粋主義精神はその頂点に達した。
1912年7月30日(明治45年)、明治天皇が薨去されたとき、国民の動揺は大きなものだった。正輝はまだ8歳になっていなかったが、その日のことは一生忘れなかった。
「尊崇の念を人々の心にしみこませ、関心を一途に皇居にむけさせるため、国内、全ての県で、『遠方から大喪儀に参加する』という大々的な儀式を施行した」とある歴史家がのべている。
また「村人全員が新しい嘉仁天皇(大正天皇)の即位の祝いに参加させられた」と書き残している。
正輝も参加したこれらの感動的な祝賀の式は、新城の小学校で行われた。それは壮観で、強い感動を受け、正輝の愛国心を大きく育て上げることになった。
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