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ブラジルを「故郷」にするなら桜を植えよう=郷愁とブラジル日本移民

サンパウロ州サンロッケ市の国士館スポーツセンターの桜

サンパウロ州サンロッケ市の国士館スポーツセンターの桜

 「静岡の茶畑そっくりだ」―サンパウロ市から南西に190キロほど下った海岸部レジストロの茶畑に取材に行き、故郷の光景を思い出した。
 といっても、緑茶ではなく紅茶だ。聞けば、原料となる茶葉は緑茶も紅茶も一緒だが、加工工程が違うのだという。お茶畑まではそっくりなワケだ。
 ブラジルは「コーヒー王国」と言われて久しい。だが、かつてそこに日本移民が「紅茶の都」を作ったことは余り知られていない。
 最盛期の80年代には、このレジストロだけでお茶工場が42もあった。紅茶は国内消費がごく少なく、完全な輸出産業だった。だから、90年代の為替変動で輸出競争力が激減し、一気に衰退してしまった。
 大半が紅茶生産から手を引いた後も、細々と生産し続けていたのが、レジストロ生まれの島田梅子さん(二世、91歳)だ。父・菅野勝見さんは福島県出身で、1914年に若狭丸で移住した初期移民で、リベイロン・プレットのコーヒー耕地に入植した。
 その頃、1913年にブラジル最初の日本移民永住型集団地だった桂植民地がこの地方で始まり、続いてレジストロ植民地開拓が1916年に開始された。

故郷で花見をしながら死んだ移民

家族史『Nossas Raízes(私たちのルーツ)』を見せながら説明する島田梅子さん

家族史『Nossas Raízes(私たちのルーツ)』を見せながら説明する島田梅子さん

 家族史を記したポ語文書『Nossas Raízes(私たちのルーツ)』によれば、父のレジストロ入植は1918年とあるから、まさに草分けの一人だった。6人兄弟の末っ子として、梅子さんは同地で生まれた。まさに生え抜きの「レジストロっ子」だ。父が健在だった頃、茶畑は今よりずっと広く、ここにもお茶工場があったという。
 2011年、納入先の天谷製茶場の経営が悪化し、「もう納めなくていい」と断られた。梅さんは「茶畑をアブラッソ(抱擁)して泣きました」と振り返る。「雑草がボウボウになった茶畑を見るのが悲しくてね。何とか再興したいって考え続けて、結局は自分で売り始めることにしたの」。
 そんな矢先、茶愛好家で製茶機械に詳しい戦後移民の技術者、牧内富男さんと偶然に道端で出会った。牧内さんは、中古機械屋で販売されていた壊れた揉捻機(葉を揉んで発酵を促す装置)を指して、「私が直すから、ぜひこれを買ったらどうか。そしたらお茶工場が始められる」と薦め実際に機械を蘇らせた。
 こうして14年11月に島田さんは自分で小さなお茶工場を立ち上げ、新銘柄「おばあ茶ん」の販売を開始した。その時、及ばずながらニッケイ新聞も記事にし、その後、大手メディアも報じるようになり、だんだん定着してきた。機械摘み一般的な中、丁寧に手摘みした紅茶は珍しく、「おばあ茶ん」は知られる存在になってきた。
 そんな梅さんから旧年10月20日、初めてお父さんの話を聞いた。

渡伯したばかりの頃の父・菅野勝見さん(島田家所蔵)

渡伯したばかりの頃の父・菅野勝見さん(島田家所蔵)

 「お父さんは5、10年したら日本にお金を持って帰ると思って、1915年にブラジルへ来た。でも思うようにお金が貯まらなかった。お父さんはずっと日本に帰りたがり、『オレは日本に骨を埋めるんだ』と言い続けていたので、ブラジル生まれの私はいつも怒っていたのよ」
 人は生まれた場所に魂の尻尾が囚われる。一世は祖国に、二世は移住先に。この違いは時間がたってもなかなか埋まらない。
 「お父さんは戦後1958年、43年ぶりにようやく日本に行けた。一緒に訪日したお母さんだけ先にブラジルに返し、『オレは花見をしてから帰る』といって残った。実際に花見にいって、桜の木の下で脳卒中を起こし、知らない人に母の実家に運ばれたのよ。それで11日後に亡くなりました」
 1958年4月28日に、本人が希望していた通り故郷に骨を埋めた。

島田茶園で茶摘みの説明をする梅子さんの娘、栄子さん

島田茶園で茶摘みの説明をする梅子さんの娘、栄子さん

 普通「郷愁」という言葉にはノスタルジックなほろ苦い感慨が伴う。だが、何十年も祖国からムリヤリ切り離されて来た移民にとって、「郷愁」は耐えがたい精神病だった。
 桜の下で死ぬ――。今の日本の日本人にとって、それが幸福な死に方ではないかもしれない。でも、本人には本望だったのではないか。島田さんの話を聞きながら「明治の日本人」庶民の生きざまに感動を覚えた。
 石にかじりついてでも茶畑を続けようとする梅子さんの意志の強さに、お父さんから受け継いだ「明治の日本人」を感じた。

ブラジルを「故郷」にするなら桜を植えよう

西谷博さん(2010年12月、サンパウロ市の自宅で)

西谷博さん(2010年12月、サンパウロ市の自宅で)

 このように、戦前移民にとって桜の花を見ることは夢だった。日本にしかないものだったからだ。
 胡椒、黄麻、紅茶、数々の野菜など商品作物の苗や種は、戦前からブラジルに持ち込まれていた。だが桜の苗が、ブラジルに持ち込まれるようになったのは戦後。これは、なぜだろうか。
 島田さんの話を聞きながら、「花咲じじい」と言われた故西谷博さん(1919―2015)を取材した時のことを思い出した。
 カルモ公園に桜を植え始めた一人で、俳人・西谷南風としても知られ、句集『さくらもり』(07年)を出版した。その略歴に、1978年の移民70年祭の記念事業の一環として桜植樹に関わり始めると書いてある。
 以後、25年間にわたり、カルモ公園桜植樹員会の委員長として1500本の植樹をし、サンパウロ市が誇る桜の名所に育て上げた。まさに〃花咲じじい〃に相応しい人物だ。
 その西谷さんに2010年12月、イタケーラの自宅で取材した際に聞いた、こんな言葉が強い印象に残っている。
 「故郷を離れた私たちは、もう帰って住むことはできないんですよ。移民の運命です。それなら、ここに桜を咲かせよう、ここを住みよい場所にしようと思ったんです。あの頃は、コロニアの中でも私たちに対して『物好きがやってるよ』という感じだった」
 ただ「植樹をすればよい」というものではなかった。
 「援協のエライ人から言われた。桜なんて古い。成功するにはイッペー(ブラジルの国花)植えた方が良いって。でもね、私たちには『日本に帰らなくても、ここで桜を見に行けるようにする』っていう気持ちがあるんですね。花見を開催したら、笠踊りが見たいと言われ、だんだん大きくなっていた」としみじみ語った。
 西谷さんは故郷・鳥取の笠踊りを県人会に導入し、居ながらにしてより故郷を感じられるようにした。
 西谷さんの話から感じたのは、「戦後、日本には帰れないと覚悟した時、皆は『ブラジルを故郷にしよう。故郷なら桜が咲かなきゃいけない。それなら桜を植えよう。そしてここを故郷にしよう。だから桜を植え続けるんだ」という強い意思だ。
 西谷さんが渡伯したのは1929年、まだ10歳だった。ノロエステ線のビラッキ、リノポリスなどを転々とし、羽瀬商会の注文取りをして地方を巡回する毎日を送り、41年に新開地だったオズワルド・クルスに居を構え、乾物屋を始めた。
 45年8月終戦、46年8月にオズワルド・クルスでは、勝ち組男性がブラジル人とバールで喧嘩して殺害する事件がキッカケとなり、町中を巻き込んだ大暴動に発展した。日本人をリンチにするブラジル人暴徒があちこちの日本人の家を襲った。
 「大きな声が上がって、『暴動だ!』っていうので、飛んで行って店を閉めた。だから、うちには被害はなかった。でも日本人が一人殺され、けが人が出たと聞いた」。町の日本人会は、当然、勝ち組と負け組に分かれていた。
 西谷さんが「子供たちの結婚のことを考えたら可哀想だ。そろそろ一緒になろう」と勝ち組団体と負け組団体の統合を呼びかけ、1960年に一つになり、その会長に就任したという経緯があったという。
 つまり、勝ち負け騒動が鎮静化するのと、移民がブラジルに骨を埋める覚悟をするのは、同時進行だった。
 たとえ勝ち負けが収まってブラジルに永住を決意した後も、「桜を見てから死にたい」「桜のある場所で死にたい」という気持ちは収まらなかった。だから、日本から苗を持ち帰ってきて移住地や公園に植えた。

ブラジル各地にできた桜の名所

2014年8月2日、サンパウロ市イタケーラ区のカルモ公園でブラジル桜イペー連盟が開催した『第36回桜祭り』に出席した安倍昭恵首相夫人

2014年8月2日、サンパウロ市イタケーラ区のカルモ公園でブラジル桜イペー連盟が開催した『第36回桜祭り』に出席した安倍昭恵首相夫人

 日系コロニアの最盛期と言われる移民70周年で、カルモ公園の桜植樹は始まり、今ではブラジル国内有数の桜の名所へと成長した。今ではブラジル人が憩う名所にもなっている。
 前述の句集の冒頭句は《日本の桜植えんと土ほぐす》だ。「日系一世世代の多くが各文協の会長であり、桜に特別の思い親しみを持っていたように思う。日本の土をほぐして懐かしんだ」と解説されている。
 最初の頃、日本の桜の会から関山桜、大島桜、彼岸桜、天の川など7、8種を送ってもらった。《夢を膨らませて暮らす。ただし、2、3年で成長を止めてしまう。雪の降る国から来た桜苗は、やはりコーヒーの国には無理であった。まもなくカンポス・ド・ジョルドンより雪割桜の小さな苗を吉岡さんが買ってこられた。四国出自のこの桜は土地に合い良く育って行った。人に故郷がある如く、桜にもそれがある。四国出自の雪割桜は、今この国で一番、日本の桜に似ていると見る人が言う》(『さくらもり』)。
 日本から来た苗に付いていた日本の土に、移民は特別な郷愁を感じた。その思いが、前出の句に結晶している。
 ただし、サンパウロは亜熱帯性気候のため、一番根付きやすかったのはヒマラヤ桜だった。沖縄や台湾に咲く品種しかここには根付かないようだ。ただし、ヒマラヤ桜を植え始めた最初は「葉が桃に似ている」「これは桜ではないかも」などと心配されていたそうだ。
 だが、移民が心の中で桜だと思えれば、たとえ代用品でも良かった。
 おそらく、戦前移民にとって「桜」が意味するものは、「故郷そのものの象徴」だった。桜が咲く場所が「故郷」であり、だからブラジルに骨を埋める決意をするにあたって、ここを日本の代わりにするために桜を植えた。
 島田梅子さんのお父さんのように日本まで行かなくても花見ができるようになり、身近に「日本らしさ」を味わって郷愁を癒すことができるようになった。

サンロッケ市の国士館スポーツセンターでの花見の様子(写真=文協/Bunkyo)

サンロッケ市の国士館スポーツセンターでの花見の様子(写真=文協/Bunkyo)

 このような「桜祭り」はサンパウロ州ならカルモ公園以外にも、サンロッケ市の国士館スポーツセンター、カンポス・ド・ジョルドンの「さくらホーム」、ガルサなどが桜祭りで有名だ。ほかにサンタカタリーナ州のラモス移住地、パラナ州でもアプカラナにたくさん植えられている。
 そして今ではそのような地区に生まれ育ったブラジル人にとっても、桜は「故郷」を感じさせるアイテムになりつつある。きっとそれも、移民がもたらす移住先への影響の一つなのだ。(深沢正雪記者、全米日系人博物館の「ディスカバー・ニッケイプロジェクト」サイトに2018年12月初出=http://www.discovernikkei.org/