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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(26)

 そして1908年6月18日、笠戸丸がサントスに入港した。ブラジル初めての正式な移民が下船したのだ。781名の契約労働者と12人の自由渡航者だった。793人の先駆者のうち324人が沖縄出身だった。1914年まで9回にわたってサントスに着いている。総計1万4892人で、771人が沖縄生まれの人間である。
 この陰には、移住事業を盛り上げなければならない理由があった。そのひとつはサンパウロ側の経済を揺るがしかねない人手不足であり、もうひとつは日本側の社会、経済の状況悪化があった。
 もっとも、こうした情報は沖縄の農村にまで十分に届いてはいなかったが、地球の反対側には大金を得る可能性があるという話は伝わっていた。困難に遭遇している新城の住民にとり、政府が勧める移住は希望の輝きにみえた。それは保久原家にとっても同じで、忠道はいちばん下の弟と、自分の次男正輝を一家が生きのこる手段として、海外に出そうとずっと考えていた。しかし、危険な冒険ともいえる移住にくわえるには正輝は若すぎ、移住が許される年ではなかった。
 1914年、ブラジルへの移住はさらに難しくなった。その年、サンパウロ州政府は日本人移民の受け入れの契約を破棄し、助成金の支払いを停止した。ブラジル側は日本人は非常に特殊な民族で、コーヒー園の仕事に向いておらず、これから先、国にとって厄介な問題を引き起こすのではないかと懸念したためだった。
 そのころブラジル政府はブラジルとウルグァイ、また、アルゼンチンの労働者の交換を試みている。また、ヨーロッパ移民を受け入れようともしていた。
 もし、ブラジル政府がそれに成功していれば、正輝は地球上の思いもよらないところ、たとえばフィリピンに移住していたかもしれないのだ。当時、フィリピンは北米の領地だったが、日本移民は受け入れられていたし、多くの沖縄人がフィリピンへ行きたがってもいた。ほかの国よりずっと近く、同郷者が多くいる。とくに、島で広く栽培されるアサの値段がよく、手取り額も魅力的だった。沖縄の若者たちは冒険でもたのしむように、短期間で稼げるフィリピンに関心をいだいていたのだ。しかし、多くの若者は書類の作成や彼らを運ぶ船の出港がまちきれずに、北米の植民地に密入国した。もっとも、正輝の家族はそのようなやり方は危険だと考え、それほど有望でなくても、安全が保障される機会が訪れるのをまっていた。
 決断は正しかった。ブラジル政府が計画した日本人移民の入国禁止はうまくいかなかった。ウルグァイとアルゼンチンとの協定も失敗に終わった。その上、1914~1918年までつづいた世界大戦の勃発は新たな問題を引き起こした。戦闘中、ヨーロパからは新しい人生を求めて大西洋を渡ってこれなくなった。白人労働者との契約が困難となった政府は、日本人の入国禁止を見直す必要にせまられたのだ。
 ブラジルへの日本移民は新しい規則のもとに、1917年に再開された。サンパウロ政府の助成金停止ののちも、日本の移民会社は活動をつづけた。1916年移民会社は結束して、サンパウロ政府に助成金継続の訴訟を起こした。全面的とはいえないが、ある程度の成果を収めてはいる。そして、新しい規則が成立した。