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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(27)

 その規則にそうために寺内正毅首相が音頭をとり、すでにサンパウロ政府と交渉中だった東洋移民会社と、当時活発に移民事業にとりくんでいた南米移民を合併し、海外興業株式会社(KKKK)を設立した。それは、日本が国家的事業としてブラジル移民をあつかいはじめた第一歩だった。それ以後、移民問題は政府が取り扱うことになった。
 結果は目にみえて現れた。1917年1069家族、4648人がブラジルに入国し、翌年には、さらに1547家族、5903人が移住した。サンパウロの農村地帯の人手不足解消のため、移民の数はどんどん増えていった。正輝がサントスに着く3日前の1928年6月14日の州議会において、サンパウロ州知事のアルチノ・アランテスは次のような声明をだしている。
「コーヒー栽培者の要請と、今後の穀物増産をかんがみ、わが州は日本人移住者枠を今までの5000人から9000人に引き上げることを決定した」
 弟や息子をフィリピンに送らずにブラジルの移民禁止が解け、再開されるのをまった忠道の用心深さが功を奏したといえる。正輝は1918年に渡った6000人のひとりとしてブラジルにやってきたのだ。

 正輝には故郷の困難な状況から逃げきれたという観念はまったくなかった。
 彼と叔父たちが若狭丸の船上で脳膜炎の危機にさらされているとき、両親、沖縄人、そして、ほとんどの日本人は、1868年の明治政権が発足以来、混乱の波にまき込まれようとしていた。
 正輝がそのことを知ったのはずっと後からだった。ただ、彼にはこれによる影響がいかにひどかったかは想像もつかなかったであろう。ただし、今世紀はじまって以来の混乱は、けっきょく、予想もつかない危機に発展していったのである。
 明治初期の数十年間における所得の統計は信頼できないのだが、しかし、間接的に国民の生活が改善されたことを示す指数がでた。長い間の不況の回復の兆候がほんの少し、ゆっくり、ゆっくり、現れはじめたのだ。
 日本人の主食である、一年間の米の消費量が1880年には一人当たり0・8石だったが、20年後には1石となり、25%も増えていたのだ。
 一人当たりの米消費量が増えた1873~1903年の間、日本の人口も3500万人から4600万人に増えている。明治初期のちょっとした生産技術の改良が農産物の生産性を大きく高め、難局を見えなくしたのだ。しかし、生産量は人口の増大に追いつかず、やがて、海外から米を輸入しなければならない状況となった。
 いまだに農業が国の経済を支えるため、これまでの発展にかかわらず、主食の米は生産面から、とくに労働面から限界にたっし、自給自足が不可能となってしまった。生きるための食べ物の生産が商品の生産にとってかわり、いつもの赤貧状況をぬけだすはけ口がまったくなくなってしまい、農村に貧困状態が広がっていった。
 そして、この貧困状態は都市でも広がっていった。農村地帯から追い出された労働者にだれも仕事を与えなかった。平均的に都市のサラリーマンの給料は物価より上がる率は高かった。けれども、それがインフレに追いつかないず、結局、買う量を少なくするということになった。