しかし、なによりも敬意を表されるのは、親の代であれ、子の代であれ長兄だった。標準語では長男、そして、沖縄の方言では嫡子とよばれる。日本の家族、そして沖縄の家族の家系の存続は彼らの双肩にかかっていた。長男が継いだ家の権利はその長男、そしてまたその長男が次々、引き継いでいく。習慣的に長男は生まれながらの後継者だということは議論の余地がない。
所有地は代々にわたり父から長男に継がれ、分離されることはなかった。そうされなかったときは短期間のうちに、全てを失うことになった。そして、所有地を失うことは先祖に対し大罪を犯すということであった。たしかに家族全体の所有地ではあったが、各世代でただ一人の者だけに権利があり、その一人が長男ということになっていた。生来の後続者は親から権利をうけ継ぐが、そのかわり、将来、父母の面倒をみる義務も課されることから、両親は彼を特別扱いした。
それが溺愛というかたちであらわれ、長男はいちばんはじめに、しかも、他のものより多く食べ物を与えられた。公式なときには(貧困な沖縄にでも公式なときがあった)まず、家長が上座に座り、その隣に長男の席が設けられていた。子どもたちの着物を新調するさいにも、いちばん先に新しい着物をもらうのは長男だった。ふつう他の兄弟からは「兄ちゃん」とよばれるのだが、ときには「兄さん」と敬意を表すよばれ方をされる。
長男の義務として、親の老後の親のめんどうをみること。そして、家系につながる先祖の霊を守ることが課された。ほかの家族の者は長男に家に置かれている仏壇の前で先祖を拝むのだった。正輝の息子、マサユキは機会をえて沖縄にきたが、そのいちばんの目的は、家系を継ぐ従兄弟の昇の家の仏壇の前で先祖を拝むことにあった。
保久原家に息子が一人しかいなかったわけではない。もし、所有地が広く、生産性が高い土地であれば、長男以外の息子たちにも一部を分け与えることができただろう。そんなことは裕福な家でしかできないし、しかも、何度もできることではない。たいていの家では、わずかな土地からあがる収益にだけでは家族が暮らしていけず、とくに、長男以外の息子は頭痛の種となる。そのため、ある年齢に達した次男以下の息子たちは、生きるための生活手段を探さなくてはならず、自分の意志ではないにしても、男子のいない家に婿として入る者もいた。
忠道は長男として、村で家系をつぐ責任があり、機会がきたら、長男の哲夫に家督を譲ろうとかんがえていたが、その時点では新城から出ていくことはできない相談だった。そしてまた、長男の哲夫にそうさせることもできなかった。貧窮状態になったとき、それも選択肢として考えたことはあったが、家族にとってあまりにもみじめすぎることだった。
しかし、忠道は一人息子ではない。その息子もまた一人だったわけでもない。家族は生きていけない状態だった。忠道の弟も、そして忠道の次男も小さく減ってしまった土地では生きていけない。こうして、ウシと結婚した樽と労働力と認められる最年少の十二歳に達した正輝がブラジルに送られることになったのだ。保久原家の末子が、忠道の次男である甥を連れて、地球の反対側まで行くことになったのだ。家族からすればごくあたりまえの成り行きで、行かせた側も行かせられた側も納得して受け入れたのだった。