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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(32)

「ちょっと、見てくるよ」と叔父にいい、そこを離れて、そのスペースにむけて走った。左右をみると、長い広い廊下が目に入った。廊下の両側にはたくさんのドアがあり、その先に広いサロンがあった。何のために使われるのか、そのときはかいもく分からなかった。建物の奥に進むと、右と左に2階に上がる広い階段があった。
 正輝の冒険はここから始まったといっていい。人間ひとりの占めるスペースに関しては、この広さはまったく奇跡のようだった。若狭丸の船室や汽車に乗っていたときの窮屈さから解放されたのだ。
 もっとも、山脈をのぼる旅はけっこう快適だったとは認めてはいた…沖縄のいなかで育った正輝は衛生観念がとぼしく入浴もあまりしなかったが、乗船前に過ごした神戸と同じように、飲んでも心配ないと保証される水道があるのだった。
 通訳を通して、最初にていねいに教えられたのはトイレの場所だった。
 サントスを出て、一度も小便をしなかった正輝はそれを聞いて喜んだ。通訳が指さす方に、いまだ、とばかりに一目散に走った。ところが、そこにはいつも便所にある穴がなかった。
 ただ小さなボックスがあり、なかには白い瀬戸物が大きく口を上に開けて床に固定されていた。ドアをまちがえたのかな? 通訳の話しを聞きちがえたのかな? 大変だ。一体どこでおしっこをしたらいいんだろう?
「そこだぞ」とだれかの声が聞こえ、ほかの者たちの様子が見えた。
(変なことをするもんだ)と思ったが。正輝もまねた。そして自分ははじめて西洋式のトイレを使っていることに気づいたのだった。
 そのすぐ後、用意された食事をとるため、廊下のつき当たりにある食堂に連れていかれた。このとき自分の家や船中のようにかがんだり、正座したりして食べるのではなく、腰かけて食べることを発見した。木の細長いテーブルがあり、両側にやはり木製の長椅子がならんでいた。
 何人分の席があるかはすぐには数えられなかったが、大勢の人が座れるのは確かだった。全部でテーブルが80あり、一つのテーブルに10人ずつ座れることがわかった。一度に若狭丸の船客のおよそ半分が座れることになる。
 食事の前に、着いたばかりの移民たちに収容所内部の規則について説明があった。6ヵ国語で書かれた規則が所内に貼られている。正輝が関心をもったのは食事の時間だった。収容所にいる間、日に4回も食事することができるのだ。まず、7時にコーヒーとパン、11時に昼食、午後4時に夕食、そして、午後7時にまたコーヒーとパンの夜食が配給される。幼児や子どもにはミルクの配給もあった。正輝は子どもではないから当たらなかった。もっとも、当ったとしても飲まなかっただろう。飲んだことがないので、ミルクの味を知らず飲む必要もなかったのだ。だから、味見もしなかった。けれどもその時代、ミルクこそ彼らの希望、期待、夢を実現させた数少ないもののひとつだったといえよう。
 はじめの食事は特別料理をだしてくれたとはいえ、彼らには奇妙なものだった。パンとコーヒーがだされたが、パンははじめて口にする食べ物で、沖縄にはこれに似たものがなかった。乗船前に短期間過ごした神戸でも食べたことはなかった。