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羅府新報=アメリカ本土日本移民入植150周年=夢と希望胸にカリフォルニアへ=(1)

日本から最初にアメリカ本土に入植し、若松コロニーを形成した先人たちの古写真。入植後に近郊の町ピラサービルに当時あった写真館で撮影したものだ(写真=吉田純子)

日本から最初にアメリカ本土に入植し、若松コロニーを形成した先人たちの古写真。入植後に近郊の町ピラサービルに当時あった写真館で撮影したものだ(写真=吉田純子)

 昨年はハワイへの日本移民150周年だったが、今年はアメリカ本土への150周年だ。ロサンゼルスで1903年から発行し続けている現存する世界最古の邦字紙「羅府新報」では、それを記念した特集記事(http://u0u1.net/Pnzt)を1月1日号に掲載した。吉田純子(じゅんこ)記者による力作だ。これは「アメリカ大陸」という共通項を持つ南米にとっても意味深い歴史的な出来事であり、同社の許可をえて、ここに転載する。ぜひ羅府新報サイトものぞいて欲しい。(編集部)

1869年、移民団海を渡る22人で「若松コロニー」

 【羅府新報1月1日付け】小高い丘の上にある小さな墓―。このカリフォルニアの大地に眠るのは、今から150年前、日本から最初にアメリカ本土にやってきた移民団のひとりで、アメリカ本土で最初に亡くなった「日系移民の女の子」の墓だ。彼女の名は伊藤おけい(以下、おけい)。
 1869年(明治2年)、夢と希望を胸に会津若松(福島県)からやってきた移民団22人はカリフォルニアにアメリカ本土初の日本人入植地「若松コロニー」を形成した。彼らは日本からアメリカ本土に渡った最初の入植者だ。プロイセン人の武器商人ヘンリー・シュネル率いるこの移民団は、戊辰戦争に破れた会津藩の侍などで形成され、カリフォルニアの地で茶と絹の栽培を試みる。しかしわずか2年で若松コロニーは崩壊。その後、彼らは日米で別々の人生を歩むこととなる。

アメリカ本土で最初に亡くなった日本人女性おけいの墓。墓参りに来た人が手向けた花や、おけいの故郷会津の郷土玩具「赤べこ」もお供えされていた(写真=吉田純子)

アメリカ本土で最初に亡くなった日本人女性おけいの墓。墓参りに来た人が手向けた花や、おけいの故郷会津の郷土玩具「赤べこ」もお供えされていた(写真=吉田純子)

 2019年はこの最初の日系移民がアメリカ本土に入植してから150周年を迎える。そして今、日米両国にいる彼らの末裔が羅府新報に先祖への思いを語ってくれた。
 150年前にアメリカ本土へと海を渡った先駆者たちの勇気と開拓者精神に思いを馳せ、この記念すべき年に彼らの歴史をここに振り返ってみたいと思う。【取材=吉田純子】
     ☆
 カリフォルニア州北部エルドラド郡ゴールド・ヒル―。1849年にジェームズ・マーシャルがアメリカン・リバーのほとりで金を発見しゴールドラッシュの発端となった場所(現在のマーシャル・ゴールド・ディスカバリー州立歴史公園)からほど近い、こののどかな田園風景が広がる土地に日本からの移民団はやってきた。
 彼ら以前にもアメリカ本土に足を踏み入れた日本人はいる。41年、漁に出たまま遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、そのままアメリカ本土に渡ったジョン・万次郎(中浜万次郎)や、51年に航海中、船が難破し、アメリカの商船に助けられそのままアメリカ本土に渡り日本人として初めてアメリカ市民権を取得した浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)などだ。しかし本格的な入植を目的にアメリカ本土に渡ったのは彼らが初めてだ。
 一行は会津若松からの移民団。かつての会津藩の侍や大工、農家とその家族などで構成され、当時の時代背景から、さまざまな思いを胸に海を渡ってきたのだろうと想像する。
 彼らが海を渡る前年の68年には戊辰戦争が勃発。旧幕府軍と新政府軍が新政権を巡り戦ったこの戦争で、旧幕府軍だった会津藩は敗北。この戦いで登場した白虎隊の悲劇は今なお語り継がれている。
 移民団がアメリカに渡ったのはその翌年。このような時代背景の中、一行は船に乗り込み新たな地を目指したのだった。(つづく)