起きてから何時間かすると、正輝は昼ご飯を知らせる声を聞いた。収容所ではこれが初めてのきちんとした食事だった。いろいろ書きこんだ書類ができたあと、無料で食事することができる食券とよばれるチケットをもらった。
「どんな食べ物だろう?」
衛生的には満点だといえるだろう。
「従業員たちは毎日、医者の検査をうけ、食品の品質は同じように栄養士の検査をうけ、台所は広々としてガスが使われていたし、つい先ごろ出回りはじめた時間的にも経済的にも効率のよい調理用具が使われていた」
メニューもパン、牛肉、豆、ご飯、じゃが芋、野菜、砂糖入りコーヒーといったブラジルの労働者や西洋人が喜びそうな食べ物だった。日本人にしてみれば、食材が珍しいわけではないのだが、ただ、その料理法や組み合わせ方に当惑し幻滅した。まず、主食のご飯だ。なぜ、こんな焚き方をするのか! 油っこく、パラパラと粘りっけがなく、味が悪い。
「なんで白ご飯じゃないんだ?」
正輝は文句をいった。だれかが豆を混ぜれば美味しくなるといったので、そうやってみた。ところが豆は味が濃く、ひどく油っこくおかしな味がした。ほんの少し食べた。
しかし、あまり食べたことのなかった肉は気に入った。故郷の食べ物がなつかしかった。のちにいろいろな物不足に悩まされることになるなどこのときは、考えもしなかった。かつて見た夢までもがなつかしくなるなど…。
ブラスの移民収容所での滞在は気持ちよく、くつろいだ日々だった。長い六日間だったが、そのあいだ移民たちの行き先が決められた。十数組のグループに分けられた。たった2家族の組もあれば、20家族にもわたる組もあった。それぞれのグループはサンパウロ州に散在するコーヒー園に送りこまれるのだが、リベイロン・プレット地方のサン・マルチニョ耕地に送られるグループだけはほかより飛びぬけて数が多く、55家族もあった。
7月24日水曜日、樽、ウシ、正輝の三人は早朝3時に起きた。その日は移民列車の駅まで歩く前に、荷物の整理をし、朝食をとらなければならなかったからだ。手続きは前日すでにすんでいた。出発のとき、各自に紙袋がわたされ、なかにはパンとスライスしたモルタデラ(安いハム)がたくさん入っていた。移民たちはモルタデラを食べたことはなかったのだが、これをパンに挟んで、旅行中に食べるのだとそれなりに判断をした。
汽車は5時に出発したが、外はまだ暗く、寒かった。保久原一家(樽、妻ウシ、正輝)はサン・マルチニョ耕地に向かう五十五家族のなかにいた。そのコーヒー園にはマルチニョ・プラドという私設の駅があった。パウリスタ線のグァタパラ駅(大農場が利用する駅)の少し手前から始まる支線の駅で、そこから北にむかって伸びているのだった。
こんどの旅には正輝の気をひくような発見は何もなかった。もう、汽車に馴れていたし、ブラス区の家々、この区域で生産する織物の工場しか見当たらなかった。ただ、停車はしなかったがルス駅が気にいった。しだいに家がまばらになっていき、チエテ川の鉄橋を過ぎたころにはもう町とはいえなかった。
その先は原生林がつづき、たまに、丘が現れるだけの単調な景色となった。ときたま窓を開けようとしたが、あきらめた。風が冷たく、機関車の先から火の粉が舞ってくるからだった。それが肌を焼き、洋服に小さな焼けあとをつけた。正輝は寒さも騒音も振動も気にならずよく寝た。汽車がジュンジアイに着いたとき目が覚めたら、夜は明けていた。
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