【岩手県山田町発】2011年3月11日に発生し、東北に大きな傷跡を残した東日本大震災。震災発生から2か月後に本紙記者が、ブラジル岩手県人会の賛助会員が住む岩手県山田町を訪れ、その惨劇を報じた。それから約8年――昨年12月に再び山田町に足を運び、人々の生活や町の変化を取材すると、震災を乗り越え強く生きようとする人々の姿が見えてきた。
山田町役場の5階から、町の中心地が見渡せる。かつては住宅と商店が建ち並んでいたが、山田湾から押し寄せた津波に飲み込まれ、壊滅的な被害を受けた。現在は、再建された住宅がまばらに建ち、空いた土地は駐車場として利用されるか、そのまま更地になっている。
ブラジル岩手県人会の賛助会員の松本トミさん(90)が、窓から眼下の景色をぼうっと眺めている。声をかけると、「町民のほとんどが自分の親族か知り合いを亡くしています。あれから8年も経つなんて…。まるで昨日ことのようです」と静かに話した。
山田町は人口約1万5千人で、2つの湾を擁す国内有数の漁場だ。震災に伴う津波と火事で家屋の45%が全壊し、死者と行方不明者は800人を超えた。
岩手県盛岡市で生まれ育ったトミさんは、二十歳のときに体育教員として赴任し、以来70年この町に住む。弟の藤村光夫さんが移住してブラジル岩手県人会の相談役となった関係で、これまでに7回も来伯した。
階段の上り下りを苦とせず、目も耳も衰えていないため、とても90歳には見えない。還暦までは毎日欠かさずランニングをしていて、今はよく散歩に出かけるそうだ。
大地震が襲ったとき、トミさんは自宅にいた。既に県内の他の地域に津波が到達していることをニュースで知り、娘夫婦と一緒に車で高台を目指した。車内から後ろを振り返ると、瓦礫を乗せた津波が家々を飲み込むのが見えた。
避難先で2晩を過ごしてから戻ると、瓦礫は自宅の前で止まっていた。そこより海に近い建物は、元の場所から流されて無くなっていた。自動車が何台も積み重なった瓦礫は2階の高さまで達していて、その中に逃げ遅れた人の遺体があった。
トミさんは40年間に渡って、山田町の小中学生を教え続けた。「家庭訪問で町中を歩きました。生徒は私に長居してもらいたくて、訪問の順番を最後にしてくれって言うんです」と思い出す。教員時代の話をするトミさんは何とも嬉しそうだ。
それだけに、震災で何人もの教え子が亡くなったことは、今でもトミさんの胸を締めつける。漁師になった教え子のひとりは、「津波が来る」と聞いて港に停めてある船を見に行ったきり、帰らぬ人となった。
トミさんは「私より早く逝ってしまうなんて考えもしなかった。やっぱり『津波てんでんこ』です」と言い、涙をぬぐった。
「津波てんでんこ」とは山田町を擁する三陸地方で昔からある教えで、「津波が来たら、家財も肉親もかまわず、各自てんでんばらばらに高台へ逃げろ」と言う意味だ。東日本大震災後、防災教育の標語として全国的な注目を集めた。(つづく、山縣陸人通信員)