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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(6)

不平・不満が百出…

移民収容所(1929年)

移民収容所(1929年)

 1929年、バストス移住地は6月以降、数回に分けて、日本から入植者を迎え入れた。ところが、200家族の計画に対し、年末までに到着したのは64家族に過ぎなかった。しかも彼らは、日本から着いた時、ブラ拓事務所に不快な印象を抱き、以後も刺々しく接することになった。
『バストス二十五年史』の〈草分けの想出を語る座談会〉の記事の中で、ある和歌山県人が、こう回想している。(発言の一部要旨。カッコ内は筆者註)
「(サントスに上陸した自分たちを)移住地の幹部は誰一人出迎えず、敬意を表しにも来ない。
 汽車で4時間遅れてクアター駅に着くと、町にはランプが灯っていた。これは、ひどい処へ来たと思った。やってきた自動車に豚の様に詰め込まれた。移住地へ着いた時は、夜明け近くだった。
 出発前、県の海外移住組合の主事から『向うに着けば、何もかもちゃんとしてある。学校、病院、映画館もできている。供託金は現地で現金に替えてくれるから、何の心配もない。ただ行きさえすればよい』と言われて来た。ところが、着いてみると、我々を取り敢えず泊める収容所があるだけ。
 それも出来たばかりで、目板が打ってないので、中は丸見え。床は生板だから、背中が濡れて眠れない。焚火をして凌ぐという有り様だった。国を出る時の主事の言葉が頭の中を駆け巡った。腹を立てるというよりも何か悲しかった。
 畑中支配人に供託金を請求すると『なに、金など渡せるものか』と突っぱねられた。とうとう喧嘩をやってしまった」
 この発言に関し、司会者の求めで、畑中が次の様に説明している。
「収容所は、第一回入植者が乗り込む3日前にやっとできた。床板などは生木のペローバだから、6月の寒さで冷え冷えとし、さぞひどかったろうと思う。
 何しろ殺伐としていたよ。新来者が500円寄こせ、何に使うのだ、新開地で物騒だからピストルを買う、イヤ必需品を買うならともかく、そんな余分な金は渡せぬ、俺の金だ何故渡さんか、イヤ渡せぬで、とうとう渡さなかった。今考えると全くの親心であったと思います」
 なお司会者の「県組合主事の言葉が出鱈目だった様に思われますが、現地との連絡はなかったのですか?」との質問に、畑中は「全く大切なことですが、連絡はなかったのです。それが悲劇を生じさせた」と明かしている。
 入植者たちは、このほか、移住地の地質の悪さ、ロッテの決め方のおかしさ、僻村ぶり、交通の不便さ、売店の商品の値段の高さに気づいていた。彼らは日本で「バストスは夢の様な理想郷」と吹き込まれて来ていた。現実は余りにも違い過ぎた。当然、不平・不満が百出した。えらい剣幕で畑中たち事務所の職員に噛みついた。
 年末に着いた一広島県人は、右の座談会で「(自分たちより先に来ていた)入植者の空気にはビックリした。何れも不平だらけで、(例えば)バストスは瘠せ地だ。慌てて土地を取るな、と異口同音に言う」と話している。慌てて土地を取るな、というのは「入る区画=ロッテ=を決めるナ」の意味である。
 ロッテは事務所が抽選で決めていた。が、入植者たちは「それは日本で聞いた話と違う」と各自の希望するロッテを要求した。到着後1カ月経っても要求し続ける者もいた。事務所が拒否すると、岡山県人6家族が移住地を去るという挙に出た。これに影響された他の2、3家族が同じ行動をとった。抽選を拒否、収容所に居座る者もいた。
 不承不承、抽選に応じロッテに入った者もいたが、広漠たる大自然、鬱蒼たる原始林に気を呑まれて呆然自失の態であった。
 悪いことに実は、入植者の多くが農業者ではなかった。その非農業者が、日本で、移住地で自分たちが入手するロッテは24町歩と聞いてきていた。24町歩というと、日本では大地主であり、小作人を使って営農していた。だからブラジルに行ったら、仕事は現地人を使ってやる…くらいに思っていた者もいた。実際は違うことを知り、不安に襲われていた。
 移住地の空気は乱れ始めた。乱れる材料が揃い過ぎていた。