乱れに乱れる
移住地の乱れは、1930年に入ると、一段と激しくなった。
2月、畑中は入植者二人を移住地から追放した。この二人はブラ拓事務所へ盾突き続けていた。
詳細については資料を欠くが、相当荒っぽい言動があったのであろう。畑中は「秩序安寧を害する」と右の強硬処置をとった。
乱れは、入植者とブラ拓事務所の関係だけではなかった。
同年6月、ブラ拓の直営製材所で職員(邦人)が争議を起こした。ここは施設建設のための用材を製作しており、20余名が働いていた。が、東田という主任の酷使に耐え兼ねた血気の若者8名が畑中支配人に待遇改善、傷害補償を要求、受け入れぬ場合は罷業に入ると通告した。これを知った入植者の中には、彼らに同情、扇動する者もいた。例の県移住地独立経営派である。
畑中は東田を辞職させ、ことを収めた。
同年11月、殺人事件が起きた。
当時、移住地には、山伐りや道路開鑿で働くカマラーダが150人以上いた。その監督をしていたのが━━畑中が平野植民地から連れてきた━━吉永宗義である。30歳くらいの苦み走った顔つきの好男子で、精悍の気漲り、射撃の腕は名人級、ポ語も上手く、荒くれ男たちを駆使していた。
そのカマラーダは、ブラ拓事務所の近くに小屋をつくり集団生活をしていた。彼らは皆、ピストルとファッカを腰に下げていた。その中には前科者も、不逞の輩もいた。ためにブラ拓事務所は移住地に在る駐在所の警官や吉永に協力を求め、武器類を押収しようとしていた。これが彼らの反撥をかった。
その日は日曜で、カマラーダ数十人が彼らの小屋の傍でピンガを煽り、ピストルを撃ち鳴らし気勢をあげていた。吉永は細身のステッキを手に、警官とそこに乗り込んだ。カマラーダの一人がピストルを向けた。吉永は咄嗟にステッキで、その腕を打った。が、ステッキは二つに折れた。この時、もう一人が撃った。弾は吉永の左胸部から右肩へ抜けた。気丈の吉永は、その場には倒れず、50㍍ほど離れた収容所まで歩き、カーマに横たわり息を引き取った。妻子4人を残した。
警官は事務所に走り、畑中に本署への同行を求めた。応援を頼もうとしたのである。二人は出発した。
カマラーダ側は、道路上に大木を横たえ、交通を遮断、邦人二人を捕虜にした。
夜半になり、数人のカマラーダが白い布を打ち振りながら、カミニョンでブラ拓事務所へ近づいてきた。人質二人を乗せていた。休戦を申し込んできたのである。事務所前に車を止め、武装を解き、中に入って吉永を殺した男を引き渡した。
畑中と警官が、応援部隊を連れて戻ってきたのは二日後だった。(なお、この事件の内容は資料類によって細部は異なる)
翌1931年4月、またもブラ拓事務所の若い職員7名が争議を起こした。畑中の専制を批判、
4人の中年職員の馘首を要求する決議文を提出「受け入れざる場合は辞職する」と申し入れた。馘首の理由として、彼らの人格を非難していた。
畑中は、善処策を相談のためサンパウロの本部へ向かった。その留守中、この一件が入植者間に伝わった。代表者たちが干渉、7名に48時間以内に移住地を退去するよう命じた。前回の製材所の争議の場合と逆である。理由は不明だが、彼らには「事務所は入植者のために存在する」という意識が強く、機会を捉えては、その運営に介入しようとしていた。結局、ブラ拓本部も畑中も、この措置を追認、7名は追放された。
このほか━━正確な時期については資料類は触れていないが━━またもピストルの暴発で、一入植者が片手を失うとか、病死者や自殺者が出るとかの不祥事が起きていた。
バストス移住地は、乱れに乱れていた。