難航に次ぐ難航
前項で記したパニックのさ中、ブラ拓事務所が直営農場で栽培・飼育したモノの中には、蚕もあった。
養蚕は、入植者の中の農業者の多くが、日本で経験していた。それと、サンパウロ州政府も蚕糸・絹業に力を入れていた。その援助でカンピーナスにイタリア移民のナショナル絹糸工業㈱が設立され、蚕種製造から桑の栽培、養蚕、生糸・絹糸生産、織布まで手がけていた。併せて養蚕家を増やすため、桑の苗や蚕種を無償配布中であった。
それを知ったブラ拓が1931年、苗と蚕種の提供を受け、入植者5戸に配り、繭を生産させた。
同年の成果は200㌔だった。翌年1、600㌔に増えた。
同年、ブラ拓は小さな製糸工場を移住地につくった。つまり、繭だけでなく、生糸の生産に乗り出したのである。「これは行ける!」と思ったのであろう。
日本から原蚕種を輸入、蚕種製造所や繭の乾燥場をつくった。養蚕家は44戸に増えていた。
が、肝心の糸にする工程になると、日本に発注した機具の到着が遅れ、発電所の運転開始も間に合わず、予定が狂った。ために急遽、繰糸婦を養成、自家製の諸道具を使って操業した。
因みに、その繰糸婦の中に滝本きみのという十代半ばの娘さんがいた。きみのさんは移住前、日本で製糸工場で働いた経験があり、糸の太さを歩留まりよく揃える達人であったという。79年後の2011年まで、バストスで生存していた。94歳だった。
1933年10月、日本から座繰機20釜の他、煮繭器、揚返機、生糸検査器具が届いた。発電所も稼働、蒸気ボイラーも設置された。蚕種の保存用の冷蔵庫もできた。
養蚕家は150戸に増え、この年、繭の生産量は2万4、000㌔となった。
こういう具合に、バストスの蚕糸業は次第に形を整えて行った。が、生産する生糸は品質が劣り、輸入品に太刀打ちできず、経済的には軌道に乗らなかった。
そこで、質の向上に努力、徐々に成果を上げた。ところが、同時期、綿への期待が高まり、入植者はそちらに夢中になり、養蚕家は100戸に減ってしまった。
ブラ拓の製糸工場は、赤字に次ぐ赤字だった。
その内、工場主任の上田平吉が、ブラ拓事務所に絹織物の生産を進言した。が、必要な予算がつなかった。止むを得ず上田は勤務の傍ら個人で小さな織物工場を始めた。生糸の供給をブラ拓の工場から受けて絹にし、羽二重、服地、ネクタイを生産した。さらにブラ拓を退き、こちらに専念した。ただ、品質はやはり輸入品に劣り、経営は赤字だった。この上田の下から村井という従業員が独立して同じ仕事を始めたが、結果は同じだった。
1936年、ブラ拓は工場主任の吉浦秀二郎に、その経営を委託した。が、うまく行かなかった。
1938年、ブラ拓を含むバストスの蚕糸業者は、事態打開のため、バストス蚕糸業者組合を発足させた。製糸工場は(一旦、吉浦からブラ拓に戻し)この組合が無償貸与を受け、経営した。生産する生糸の一部は、上田・村井の両工場に委託加工させ、絹織物として販売した。
1939年末、生糸の市況が上昇し始めた。やっと時節が到来したのである。
ところが、そうなると、今度は工場の生産能力が不足した。ために翌年、ブラ拓の銀行部(同年、南米銀行へ改組)から融資を受けて、増設した。すると今度は繭が不足、増設した機械が遊んでしまうという有り様。その内、生糸の市況が崩れ始めた。経営は行き詰まった。資本金の10倍の融資を受けていたという。
まさに難航に次ぐ難航だった。
1940年末、組合は解散、工場はブラ拓に返された。この時、別会社にすることになり、ブラタク製糸㈲が設立された。
なお、ブラ拓は――バストスに次いで開設していた――チエテ移住地でも蚕糸業を育てていたが、そちらの製糸工場もうまく行っておらず、この時、合併している。
新発足のブラタク製糸の本社は、サンパウロ市内に置かれた。社長は加藤好之(ブラ拓本部幹部)、バストス工場長は畑中仙次郎(バストス移住地支配人)、チエテ工場長は古関徳弥(チエテ移住地支配人)ということになった。が、いずれも兼任であった。実務は、販売主任となった天野賢治と技術主任となった谷口章が切り回した。以後、この二人がブラタク製糸を担うことになる。
なお、この間、1935年、カンピーナスのナショナル絹糸はマタラーゾに買収され、また各地に非日系の製糸会社が設立されていた。(つづく)